2022年10月23日(日)
ヨブ38-4-18,使徒14:11-17
キリスト教、ユダヤ教といった「一神教」の特質の一つとして「人は神になれない・なろうとしてはいけない」というものがある。人間がしばしば祭神として祀られる神道などとは異なる特質である。人間が神のようになろうとして、信仰心を自分の目的のために利用することを厳しく自制し、戒めてきた。
「神のみこころを尋ね求めて生きる」それはキリスト教信仰の大切な目標ではある。しかしその「みこころ」を人間は完全に知ることができるのか?それは結局のところ「わからない」。「私には神のみこころが分かる」という人がいたならば、それは自分が神になろうとする道を歩み始めていることなのだ。
「神のみこころは分からない」→「でも何とか分かろうとする」→「少し分かったような気がする」→「でもやっぱり分からない」このいつ終わるとも知れないループの中に身を置くこと、そして「私たちは神ではない。神になろうとしてはいけない」そんな風に自らを律するのが一神教の信仰だ。
ヨブ記はそんな信仰のテーマを取り上げる物語である。信仰深く、正しい歩みを重ねていたにも関わらず、度重なる理不尽な不幸に見舞われるヨブ。当初は「これも神の定められた運命だ」と受けとめていたが、友人の「この不幸が起こったのは、お前にも責任がある。知らずに犯した罪への報いではないか」という説得に猛反発、猛然と神への不満を述べ始める。「私がこんな目に遭わねばならない理由があるなら、それを示してみよ!」と。
3人の友人がいずれも説得に失敗する中、突然現れたエリフという若者が、火のような言葉を投げつける。「神さまは神さまだ。そしてヨブよ、あなたは神さまではない。」と。ヨブが気後れして怯んだところに神さまが現れて言われた言葉、それが今日の箇所である。
「私が天地を作った時、お前はどこにいたのだ?」と神は言われる。「始原の遅れ」(レヴィナス)という言葉がある。世界の創造(始原)に対して我々は遅れてやって来た…そのような受けとめ方を表す言葉で、一神教の信仰のあり方を表す言葉だ。「私に不幸の理由を説明せよ。私がその是非を判断しよう」というヨブの問いは、その一線を踏み越えた態度なのである。自分の思い違いに気付かされたヨブは、始原の遅れの感覚を取り戻し、物語は終わる。
使徒言行録では、パウロがイエスと同じような癒しの奇跡を行ったのを見て、驚いた街の人々が「神々が人の形をとって来られた!」と拝み始めた。これに対してパウロは「私たちも同じ人間にすぎません」と叫んだ。自己神格化の誘惑を断ち切ってそのように語ることができたのだ。
自己神格化の誘惑は私たちにも忍び寄る。「私が絶対に正しい。あの人は絶対に間違っている。」そのように是非を自分で判定してしまうこと、それは自己神格化への第一歩なのである。
「始原の遅れ」を取り戻そう。そして「神は天地の創り主」というところに立ち続けよう。自己を絶対化せず、裁き合わうことなく、小さな者同士、共に生きる者となろう。