『 罪によって死に、死によって生きる 』川上牧師

2022年10月30日(日)
創世記9:8-17,ローマ5:15-21

キリスト教には「人は生まれながらにして罪人である」という考えが基本的にある。その価値観の源になっているのが、創世記のアダムとエバの物語である。エデンの園のどの木から取って食べても良い…ただし中央の「善悪の木」からだけは食べてはいけない、食べると死んでしまう、と制限がもうけられた。当初、アダムたちはその神の戒めを守って暮らしていた。

ところが惑わす者が現れる。ヘビである。それはサタンの誘惑を象徴している。「その木の実を食べても死ぬことはない。それを食べると神のようになれる、だから神はそれを禁じられたのだ」。この言葉に惑わされて、戒めを破ってしまう。「神のようになろうとする自己中心的な思い」それが罪の源なのだ。

この罪への報いとして3つの罰が言い渡される。アダムには労働の苦しみ。額に汗して耕さなければ食物を得ることができない。エバには産みの苦しみ。次の世代を得るために出産の痛みを経験しなければならない。そしてアダムとエバ、その子孫たち(つまり人類全体)には、死すべき運命が定められた。ここで人間の罪と「死」というものが結びつけられている。

「一人の人によって罪が世に入り ・・・ 死は全ての人に及んだのである」というローマ書の言葉はこのことを表している。しかしパウロは、「人は罪のために死なねばならない」という諦めのような無常観を示そうとしてこう記したのではない。そうではなく、キリスト教信仰においてのみ知ることのできる大きな恵みを告げるためにこの言葉を記したのだ。

ローマ書5:15-18の言葉をお読みいただきたい。これらの言葉が示すのは、「イエス・キリストの十字架の死、その死によって我々は生きるものとなったのだ」という福音理解である。ここで「死」の位置づけが180度正反対に変えられるという大展開が示される。すなわち、罪によって死ぬべきとされたものが、逆に死によって生きるものとなる、ということである。

このキーワードを元に、ノアの箱舟の物語を読み直してみよう。人の罪を滅ぼすための大洪水、ここでも罪と死が結び付けられている。しかし信仰者ノアは箱舟にのって命を保つことができた。けれどもノアにとってそれは、心から喜べる状況だったのだろうか?

「サバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)」という言葉がある。災害などで生き残った人が、亡くなった人のことを思って抱くうしろめたさのことである。しかしそれを乗り越えて「残された命を、人のお役に立つことに用いよう」と決意する人もいる。それはまさに「死によって生きる/生かされる人」の姿ではないかと思う。

ヨハネの手紙は「イエスは私たちのために命を捨てて下さった。だから私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」と語る。命まで捨てることは難しいが、それが出来なくとも、イエスの生き様に倣い、自己中心的な罪を乗り越えて、隣人を助けよう・支えようという人になれるならば、私たちは「死によって生きる/生かされる者」となるのだ。