『 主は我らの救い 』楠元 桃 伝道師

エレミヤ33:14-16,ルカ21:25-36(11月20日)

コロナ状況が3年近く経ってもなかなか収まらない。学校で働く者として、我慢を重ねてきた生徒たちのことを思うと心が苦しくなる。そんな中、今年もアドヴェント~クリスマスはやって来る。今できることを誠実に重ねながら、その季節をふさわしく過ごしたい。

旧約は預言者エレミヤの言葉である。彼が活動したのは、南王国ユダが滅び、バビロン捕囚に向かっていく厳しい時代であった。そんな中でエレミヤは安易な慰めを語らず、神の裁きと悔い改めを呼びかける。「『我々には神殿があるから大丈夫』などと思い上がるな!形だけの信仰はいつかは潰れる。捕囚の苦しみの教訓を謙虚に受けとめよ!」と。しかしその預言の言葉は反感を買い、治安を乱す者・敗北主義者との誹りを受け、逮捕・監禁されてしまう。

挫折を経験したエレミヤは「もう預言など語るまい」という思いを抱くが、それでも神の言葉が心に沸き起こり、それを語らざるを得ない立場に置かれ続けた。本人も苦しみつつ嘆きの預言を続けたが故に「涙の預言者」と呼ばれる。

しかしエレミヤは裁きや滅びや嘆きばかりを語ったのではない。31章では「イスラエルはきっといつか回復するであろう」という希望を語り、神の新しい契約を示す。それは集団としての「民と神」との間の契約ではなく、個人としての「人と神」との契約であり、律法の文章に表された契約ではなく、ひとりひとりの心に授けられる契約である。

そして今日の箇所(33:14-16)において、その約束を果たすために、一旦は途絶えたダビデ王家の末裔から「正義の若枝」を生え出でさせる…との言葉が語られる。メシヤ降誕の預言…その預言が、イエス・キリストの到来で実現するのである。

新約はルカ福音書に記されたイエスの言葉、再臨・終末に関する教えである。「再臨・終末」というと、ヨハネ黙示録の影響などもあり、どこか恐ろしい事柄のようなイメージを抱く。しかし本来は神の国の到来を告げるものであり、喜ばしい出来事なのだ。「今は不完全な世の中だが、やがて神の力によって完成する日が必ずやって来る!だから、そこに向かって胸を張って生きていこう!」と。

「だからその日に向かって、目を覚ましていなさい」とイエスは教えられる。「目を覚ましている」とは眠らないでずっと起きていることではない。何事においても心を騒がせず、心の目を覚ましていることである。

コロナ状況は私たちの心をざわつかせた。動揺し、差別が起こり、心がグラグラした当初の頃を思い出す。そんな時こそ焦らず心を落ち着かせて歩むこと…そんなことを「目を覚ましていなさい」というイエスの教えから示される。

アドヴェントの季節、それは「かつて来られたイエス」に思いを馳せる時であると同時に、「やがて再び来られるイエス」への思いを深める時でもある。「天地は滅んでも、わたしの言葉は滅びない」というイエスの言葉を信じ、「主は我らの救い」と常に語れる信仰を目指そう。

(文責=川上 盾)