『 主の恵みの年 』川上 盾 牧師

2021年12月4日(日)
ルカによる福音書4:16-21

アドヴェントは「待つ」季節、待つことを学ぶ季節である。現代人は「待てなくなった人々」だとつくづく思う。文明の進化と発展は、あらゆるものの達成速度を飛躍的に短くした。その分時間が余り余裕が出るはずなのに、私たちはむしろ「忙しい、忙しい」と立ち回っている。パソコンのデータ処理にかかる20秒が「遅い!」と感じるほど、スピードに心を毒されてしまっている自分に気付く。

待つことを見失った現代人は、「何でも自分の思い通りに進む、自分が世界の支配者の様に振る舞う」といった不遜な姿に陥ってしまう。今こそ私たちは、「♪とうとい方のお生まれを、何百年も待ちました」(旧・幼児さんびか『神さまからのおやくそく』)と歌われたの歌詞のように、自分の世代を超えて神の救いを待ち続けた人々の信仰に学ばねばならない。

今日の聖書・新約は、イエスが故郷のナザレで宣教活動の第一歩を踏み出す場面。選挙演説の第一声のように、人々の注目が集まる中、イエスが安息日の会堂で朗読されたのは、イザヤ書61章の言葉であった。それはバビロン捕囚の苦しみの時が過ぎ、新たな時代に向かう人々に向けられた言葉である。

注目したい言葉がある。「主の恵みの年」それがいま実現した!とイエスは言われるのだ。「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」のことで、イスラエルの驚くべき慣習である。それは50年に一度、すべての負債を帳消しにするというもので、貧富の差を是正し、借財によるマイナスポイントを世代を超えて持ち越させず、万人にやり直しのチャンスを与えるものであった。

「それは不公平だ!」と私たちは思うが、それは私たちが「私有財産制度」に骨の髄まで取り憑かれているためだ。聖書の考え方においては、土地は個人の所有ではない。それは神さまのものであり、人間はそれを譲り受けているだけなのだ(「嗣業」)。

ヨベルの年は、幸運に恵まれて富を築いた人には残念なシステムだが、運悪く収穫を得られず、苦しみの日々を重ねてきた人にとっては、大きな希望となるものであった。「今苦しくても、ヨベルの年がある!」そう思うだけで、苦しみの日々にも耐えられるのだ。

イエスはそのヨベルの年に関するイザヤの言葉を読み、「この言葉は、今日、実現した」と言われた。そして、「貧しい人に福音を告げ、捕われ人に解放を告げ、目の見えない人の視力を回復し、圧迫されている人を自由にする」(イザヤ61章)といったことを、一つ一つの出会いの中で実現されていった。そうすることによって、主の恵みの年をひとりひとりにもたらされたのだ。

私たちの時代にも様々な困難がある。しかしイザヤの時代との決定的な違いがある。それは「この困難の中にイエス・キリストが来て下さった」…そのことを知っているということだ。「かつて」イエスによる救いが与えられたのと同じように、私たちにも「やがて」救いの時が与えられる…そう信じて、その時を待ち続けよう。