2023年1月1日(日)
サムエル上1:20-28,ルカ2:21-35
元旦の今日、日本人の多くは初詣に出かける。神社仏閣でささげられている祈りとはどんなものだろうか。「家内安全」「無病息災」「合格祈願」「五穀豊穣」「商売繁盛」…それらはみな自分の願望をかなえてくれる祈願だ。しかしある宮司さんが、そのようなご利益祈願は神社信仰では本筋ではないと語っておられた。
神社の祈りの本質は「決意表明」。「このことを目指します。どうぞ見ていて下さい。」というものなのだそうだ。なるほどなーと思わされた。キリスト教では新年(元旦)に何か宗教的な意味合いがあるわけではないが、年が改まる節目に新しい決意をもって臨むことは大切なことなのかも知れない。
今日与えられた聖書の箇所は、旧約も新約も「わが身を主に献げる」内容である。それも自分の意志ではなく、両親によってわが身を主に献げられるエピソードだ。
旧約はサムエル記、後にイスラエル王の任命者となる預言者サムエルの物語である。長い不妊の後ようやく身ごもり生まれたサムエルを、母ハンナは祭司エリの元に連れてゆき「私はこの子を主にゆだねます」と語った。幼な子は成長し、イスラエルにとって大切な働きをする人となっていった…というストーリーである。
ふと気になることがある。ハンナは信仰によってわが子を主に献げたが、ではサムエル自身の思いはどうだったのか?ということだ。「宗教二世」と呼ばれる人の悲哀が注目されている。本人の意志はそっちのけで信者としての振る舞いや多額の献金を強要されるのはさぞ苦しいことだろう。
私も牧師の家庭に生まれ、半ば強制的な宗教との関わりに思春期には反発もした。しかし信仰を持つ最後の決断は、自分の意志に任されていた。このことは感謝している。キリスト教との出会いは自分で選んだものではなかったが、その道を進もうというところには自分の意志があった。反発を感じながらも、その世界で生きる尊さや豊かさも同時に見せてもらっていたのだろう。
サムエルはどうだったのか?反発や不満はなかったのか?聖書は何も語らない。ただ、イスラエル社会が王政に向かい大きく変わろうとする時代において、重要な働きを担う存在となってゆく。生半可な覚悟では担い切れない働きである。親に敷かれたレールをいやいや歩んでいたのではとても担えるものではない。恐らく成長の過程で、よき出会いと交わりのうちに、今度は自分自身で「わが身を主に献げる決意」をしたのだろう。
新約はイエスが生後間もなく神殿で主に献げられる場面。「初子」として生まれたイエスは、ユダヤのしきたりに従って、8日目に割礼を受け、40日目には献身の儀を受ける。そこにひとりの人物が現れる。「救い主に会うまでは死ぬことはない」と告げられていたシメオンである。彼は幼な子イエスと出会い、「主はようやく私を安らかに去らせて下さる」と語った。
それだけでなく、彼はとても不吉な予言を語る。「この子は多くの人を倒したり立ち上がらせたりし、反抗を受けるしるしとして定められている。」そしてマリアに向かい「あなたも剣で心を刺し貫かれるでしょう」と告げた。これらの言葉はイエスの辿る運命、そして最後は十字架の苦しみであることを示唆している。イエスにとって「わが身を主に献げる」とは、決してうれしい出来事ではなかったのだ。
ここまでのところ、イエスの意志は何一つ示されない。にもかかわらずこの時点で既に、決して幸せとは言えない人生の行く末が暗示されている。このことを、その後成長する過程でイエスはどう感じたのだろうか。「かなわんなー。勘弁してほしいな…」そう思ったこともあったのではないだろうか。
けれどもどこかの時点で、そのような道に進むことを今度は自分の意志で引き受け、「わが身を主に献げる」決断をしていかれたのだろうと思う。「神の国の実現のためには、誰かがその役割を引き受けなければならない」と。
自分勝手な思い、自己利益の追求だけを考えていたのでは、そのような判断は下せない。決断をうながすのは、神の御心を尋ね求め、そのためにわが身を献げようとする意志に他ならない。
パウロは「自分のからだを聖なるいけにえとして献げよ、それがなすべき礼拝だ。」と語った(ローマ12:1)。これは私たちもイエスに倣い、神の国の実現のためにわが身を主に献げよ、という勧めに他ならない。毎週の礼拝でこのようなことを求め続けられたら、私たちはそのことを大変重苦しく感じるだろう。しかしせめて元旦の礼拝ぐらいは、そんなことを心に念じてもよいのではないだろうか。