2022年1月15日(日)
出エジプト18:17-23,ルカ5:1-11
込み入った大切な仕事は、その役割を長年担ってきた人や慣れてる人・こなれた人に任せる傾向が強い。その方がスムーズに事が進むからである。しかし大事な仕事をひとりの人にだけ任せ続けると、その人が何かの事情でできなくなると途端に困ったことになる。大切な働きだからこそ、ひとりで抱えずに共同で担うことも大事な視点だ。
モーセも同じ事情を抱えていた。エジプト脱出以来、荒野の旅の途中で起こる様々なトラブル、それに対するクレームの対処に、最初はモーセひとりが関わっていた。しかしその効率の悪さ・行き届かない現実に対して、モーセのしゅうとエトロは役割を分担し、共同作業に切り替えることを忠告した。そうしないと、モーセも民も疲れ果ててしまう…と。この忠告を受けて複数の人員による対処へと切り替えていったことが記される。
新約はイエスがペトロやアンデレといった弟子たちを招かれる場面。師匠の方から弟子を招かれるという、通常の弟子入りとは逆のベクトルだ。良く似た形での弟子入りに、大相撲のシステムがある。スカウトが声をかけて入門に誘うのは、身体の大きなこどもたちなのだそうだ。イエスの弟子たちには、何か選ばれるのにふさわしい資質があったのだろうか。
12弟子のうち5人は漁師であった。湖の上で自然相手に判断を早く下さねばならない仕事…だから気性も激しくなる。大漁の日もあれば不漁の時もある、少しギャンブルじみた仕事。そんな漁師が、イエスの宣教を手伝うのにふさわしい人たちだったということなのだろうか?
しかし選ばれたのは漁師だけではない。徴税人も、大工も、熱心党という革命グループに属する人もいた。そして後にイエスを裏切るユダも…。その後の弟子たちの姿を見ると、とてもふさわしいとは言えない、むしろイエスのことをほとんど理解していない「烏合の衆」のような人々である。
イエスの担われた宣教の働き、それは全ての人が尊ばれる「神の国」を築くことだった。そんな大切な働きを担うのに、まったくふさわしくない人々が選ばれていった…このことは私たちに何か大切なことを示しているように思う。それは、イエスの担われた働きは大切なものではあるけれども、イエス独りで担うものではなく、弟子たちと共なる共同作業であったということだ。
手が足りなかったということもあるだろう。しかしそれだけではない。その大切な働きは、イエスと同じ力を持った「立派な人」だけが担うのではなく、弟子たちのような無理解な者も選ばれた…いやむしろそんなふさわしくない者「こそが」選ばれた、ということなのではないだろうか。
力ある者だけで進めた方が効率的だったろう。しかし一部の人で理想的な世界を築いても、それではみんなの喜びにはならない。強い者も弱い者も力を合わせる時、たとえ達成度は低くてもそこにはみんなの喜びがある。イエスが目指した神の国とは、そういうものなのだ。