2023年2月5日(日)
箴言3:1-8,ルカ8:4-8
今日の新約は、イエスの「4つの種のたとえ」である。道端、石地、茨の地に落ちた種は実を結ばなかったが、「よい地」にまかれた種は成長し、豊かな実を結んだ。直後の解説によれば、種とは神の言葉、道端は鳥(悪魔)に奪い去られる状況、石地はしばらく信じても根がないのでなくなってしまう状況、茨の地はしばらく成長しても、世の思いわずらいや欲望などで実らなかった状況を表している。
では「よい地」とは何か。これまで私は、会津で出会ったクリスチャン農家(無農薬・有機栽培)の方々の教えに基づいて、「それはよく耕された土地だ」と語り続けてきた。人生のいろんな出来事を「こやし」にして、深く耕された土地こそが神の言葉を豊かに宿らせるのだ、と。
ところが先日の新聞の連載記事を見て驚いた。「不耕起栽培」=耕さない農業についての特集である。それによると、耕す農業は同じ作物を大量に作る「人間にとって都合のいい農業」であり、土の中の温暖化物質を掘り返すため、実は環境に負荷の大きい農法だという。また掘り返すことで生物多様性が失われ、固くしまった「死んだ土地」になるというのだ。
それに比べて不耕起栽培は、土を掘り返さず、雑草を根絶やしにせず、地上の分だけ家畜に食べさせる農法で、しばらく続けているとミミズの多く住む柔らかな土になるという。窒素が豊富なため肥料も不要、水分も保たれる土地になるというのだ。人類が農業を始めておよそ1万年、これまでは「よく耕された土地がよい地」というイメージがあったが、その認識も修正を迫られるかも知れない。
そもそもイエスは「たとえ話」だけを語られて「聞く耳のある者は聞きなさい」とだけ言われたのではないか。聖書に記された解説は、イエス自身がしたものではなく、後の時代の人の加筆ではないだろうか。
「聞く耳のある者」とは誰だろう?神の言葉を聞いて実りをもたらす「よい地」のような心を持つ人だ…そう受けとめられる。しかしそこでハタと立ち止まる。「ではその『よい地』とは何か?」という問いが生じるのである。
これまでは「それはよく耕された土地だ」と考えてきた。しかしいま、耕す農業の問題を知る上で、違う考えが思い浮かぶ。「あるがままの自分」を耕して(改良を加えて)多くの実りを生み出す「よい地」になる…というのではなく、あるがままの姿で実を結ぶとき、そこが「よい地」となるのではないか、と。
さらには実らなかった種のことにも思いを馳せる。結果的に実を結ぶことはなかったとしても、そこで朽ちて土になり他の種を育んだのであれば、その種にも存在の意味があったのではないだろうか。
福岡の貫山には岩を貫いて生える「ど根性の木」がある。その木にとっては岩の上が「よい地」だったのだ。「よい地」とは必ずしも良く耕された土地とは限らない。実りを結ぶことができるなら、どんな土地であっても「よい地」なのだ。