『 内にひそむ罪の罠 』川上 盾 牧師
2023年2月26日(レント第一主日)
ルカ4:1-13(2月26日)
今年もレント(受難節)に入った。イースターまでの日曜日を除く40日間、自らの罪を見つめて過ごす「克己・修養の時」とされている。
「人はみな神の前に罪人である」。それがキリスト教・ユダヤ教の人間理解、いわゆる「原罪」の考え方だ。私は牧師の子どもとして育ったが、幼い頃この考え方が納得できなかった。よく用いられた「四色の絵本」の中で、「イエスさまが来るまでは人はみな『真っ黒』でした。」と言われるのに対して、「そんなん、真っ黒な人間なんかいるわけないやろ!」と反発していた。
しかし年を重ねるごとに、自分の中にある「黒い部分」を認めざるを得なくなる。思うに「真っ黒な人間」などいない。どんな悪人の心にも美しいものはあるはずだ。しかし同時に「真っ白な人間」もいない。白・黒・グレーが混ざり合っている…それが人間の現実ではないか。
そもそも「罪」とは何だろう?聖書の示す罪とは、法律に違反する「犯罪」のことだけではない。ギリシャ語の「ハマルティア」は「的外れ」の意味を持つ。神の御心から外れてしまった生き方が聖書の語る「罪」である。それは誰もが抱く「自己中心的な思い」のことである。電車に轢かれて亡くなった人が「自分の家族でなくてよかった」と思う気持ち、それが罪なのだ。
今日の聖書はイエスが荒野でサタンの試みに遭われる場面だ。3つの誘惑が記される。<①石をパンに変えてみろ ②私(サタン)を拝めば世界の栄華を与えよう ③高い屋根から飛び降りてみろ。神が守ってくれるだろう> これらの試練は、ヨブの受けた試練のような実害を伴う試練ではない。そうではなく、私たちの心に存在する「内なる欲望」を巧みに呼び覚まそうとする試練である。
私たちの罪とはそういうものではないだろうか。サタンが外から圧力をかけて罪を犯させる…というのではなく、私たち自身に内在する欲望に働きかけるもの…。それが「内にひそむ罪の罠」である。
これを聞いて「あれっ!?」と思う人もいるだろう。そういうことだと、イエスの心の中にも罪の罠がひそんでいたということになる。「神の子、救い主なのに、そんなことってあるの!?」と。
この点は説教者でも解釈が異なるだろうが、私はイエスの心の中にも罪の罠がひそんでいたという解釈は「あり」だと思う。フィリピ書のキリスト賛歌で「キリストは神の身分でありながら・・・人間と同じ者になられました。」とある。イエスは、実際に罪は犯されなかったが、罪に至る心は私たちと同じように持っておられた。その上でそれらの誘惑にイエスは聖書の言葉と祈りの力によって打ち勝たれたのだ。
イエスは「神の子」と呼ばれた人ではあったが、鋼の心を持って何事にも動ぜずに超然と生きられたのではない。「超人」ではなく生身の身体と心を持ったイエスが、信仰の力で「内にひそむ罪の罠」を乗り越えられた…そこにこそ私たちの学ぶべき点がある。それはゲッセマネの祈りをささげながら、悩みつつ十字架に向かわれたイエスの姿に学ぶのと同じことである。