2023年5月7日(日)
申命記7:6-11,ヨハネ15:12-17
キリスト教のメッセージは、逆説に満ちている。「貧しい者・悲しむ者は幸い」「先の者は後になり後の者が先になる」「わたしは弱い時こそ強い」など。そのような逆説のメッセージの一つに「神の選び/選ばれた民」というものがある。
たくさんある中から何かを・どれかを選ぶ…そこには選ぶ側の人の思いが先行し決定権があるとふつうは考える。しかしキリスト教のメッセージではそうではなく、その人が選ぶより先に、神が(イエスが)その人を選んでいる…そう語られる。今日の新約の箇所はそのことを語っている。
師弟関係においてはこのようなことがしばしば起こり得る。弟子の方に「私がこの師を選んだ」という意識が残るあいだは、まだその人は本当の弟子とは言えない。まことの弟子とは「自分で選んだ」と思うその背後に、自分の思いを超えた導きを感じる人のことを指すのである。
信仰の世界でも同じことが言える。数ある宗教の中からキリスト教を選び、洗礼を受ける…そこにはその人なりの選択がある。しかし自分で選んだそのことを、「そうではない、私が選ばれたのだ」そう受けとめ直す心のありようのことを信仰と呼ぶのだ。
旧約の民・イスラエルは強烈な選民意識を抱いて歴史を歩んできた。神の選びを信じ、割礼を受け律法を守ってきた。神がイスラエルを選ばれたのは、彼らが優れた民だったからではない。「あなたはどの民よりも弱く貧しかった。だから選んだのだ」(申命記7章)と記される。そこにはいと小さき者を憐れむ神の愛が示される。
この選民意識は、彼らがしばしば遭遇した苦難の歴史の中で、その苦しみを耐え忍ぶ力を与えた。しかしその思いが優越感と結びつく時に、それは鼻持ちならない高慢な意識へと変わってしまう。悪しきエリート意識に固まった、イエスの時代の律法学者・ファリサイ派の人々の姿がそれである。イエスはそんな人たちの高慢さを戒め、悔い改めを迫られた。私たちクリスチャンの意識も、気を付けないとこの悪しきエリート主義に陥ってしまう。そのことを自戒したい。
「あなたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)とイエスは言われる。ではイエスが弟子たちを、そして私たちを選ばれたのは何のためだろうか?「選ばれた民」としての栄誉を与えるため?救われた者としてこの世での成功へと導くため?クリスチャンにだけ約束された永遠の命を与えるためなのだろうか?
そうではない。この言葉に前後する形でイエスはこう言われる。「互いに愛し合いなさい。友のために命を捨てる、それよりも大きな愛はない。」私たちが選ばれたのは、互いに愛し合うためなのだ。
私たちにその資格や実績があるから選ばれた、というのでは決してない。私たちは友のために命を捨てることなどとてもできない。しかしそれでもなお、イエスは私たちを選ばれる。互いに愛し合うため、そのわざを通して神の国を作るために。
その選びに100%応えるのは難しい。しかしそれでも「ここには大切なことが示されている。」そう信じて受けとめ、イエスに従ってゆく者でありたい。