『 信じる者に報いる神 』

2023年5月21日(日)
ダニエル3:13-18,ルカ7:1-10

「神さまは、ただ信じる者を必ず救って下さる方である」それがキリスト教の信仰である。今日の聖書箇所にはいずれも「ただ信じる」、それだけで救いへと導かれた人々の姿が描かれている。

旧約はダニエル書。バビロン捕囚時代、王の造った偶像を拝まなかったことによって、燃える炉の中に入れられた3人のユダヤ人の物語だ。「偶像崇拝禁止」の律法に従ったことによって弾圧を受けた彼らは、しかし燃える炉の中でも神によって守られ、焼き尽くされることなく生還した。神はそのように信じる者に報いられる方である…ということを伝える話である。

新約は百人隊長の部下が癒される物語。自分の部下が病気であり、癒されることを願ってイエスに申し出た。隊長は異邦人であったが、イエスを通して働くイスラエルの神の力を信じ、願い求めたのである。

ところがイエスが癒しのために家の近くまで来た時に「ご足労には及びません。あなたを迎え入れるほどの者ではありません。ただお言葉を下さい」とだけ申し出た。自身も軍隊長として命令一下部下を動かす働きをしていた彼は、言葉による力を信じ、委ねることができたのだ。

するとイエスは「イスラエルでもこれほどの信仰は見たことがない」と称賛された。家に帰ってみると部下は癒されていた…というのである。はたして癒しを与えたのはイエスなのだろうか?イエスは僕に触れていない。会ってもいないのだ。

イエスの力を信じて願い出たのは隊長だ。そして隊長は部下のことを思いやる人でもあった。そんな隊長の姿に、部下の心に「この人のお役に立ちたい。迷惑をかけたくない…」そんな思いが芽生え、それが自己治癒力となって癒しが実現したのではないか。この癒しの奇跡は、隊長のイエスを信じる気持ち、そして部下の隊長を信頼する気持ちが相まって起こったものなのではないだろうか。そのように信じる者に、神さまが報いて下さったことを伝える物語である。

ところで「神さまが報いて下さる」とは、どういうことだろうか。信じて願えば何でも思い通りのことがかなえられる、ということか。逆に言えば、信じて願っても思い通りのことが起こらなかったら「信仰が足りない」とか「もう信じるのはやめた」となるのだろうか。

このことについてダニエル書に記された言葉が大きな示唆を与えてくれる。王から燃える炉の中にいれるぞ!と脅された3人は「そのようなことをしても、神はきっと助けて下さいます。」と答える。しかしその直後にこう言うのだ。「たとえそうでなくても、私たちは偶像を拝みません」。ここにあるのは単なるご利益信仰ではない。信じて、願って、思い通りにならなくても、それでも神を信じることをやめない!という決意表明である。これこそが「まことの信仰」なのではないか。

「信じて祈る者に、神はきっと報いて下さる」…そのことを信じたい。それは祈る者の思い通りの道ではないかも知れない。しかしそれでも、神は必ず何らかの形で報いて下さる…そのように信じる信仰を求めて歩みたい。