2023年5月21日(日)
マタイによる福音書28:16-20
5月18日(木)は昇天日。十字架の死から復活したイエスが、再び弟子たちの元を離れ神のもとに帰られた日だ。昇天の出来事はルカだけが記している。(ルカ福音書と使徒言行録)
ルカ福音書では天に昇るイエスを見て「弟子たちは大喜びでエルサレムに帰り・・・神をほめたたえていた」と記される。「ほんとかな?」と思う。再び会えた復活のイエスに導かれる心強さ…それが失われたのだ。むしろ使徒言行録が記す、茫然と天を見上げていた弟子たちの様子こそ実際の姿だったのではないか。
するとそこに天使が現れて言った。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは・・・またおいでになる」。イエスは天に帰って、「それでおしまい・二度と会えない」ということではなく、「またおいでになる」…それが「再臨信仰」である。その再臨までの間、イエスは弟子たちの元を離れる。弟子たちは「師の不在」という状況を自分たちで歩んでいかなければならない。
先日の聖書研究会でこの「イエスの不在」について話したら、質問が出た。「イエスはいつも私たちと共におられるのではないですか?」この質問には一理ある。それが今日の聖書箇所・マタイ28章である。
ルカの描くイエスは、教えるべきことを教えるといなくなってしまう。しかしマタイのイエスは、山に登り、弟子たちに伝道の使命を与え、そしてこう言われる。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。聖書全体が証詞するよみがえりのイエスは「いるけどいない・いないけどいる」という存在なのだ。
「そんなの、矛盾じゃないか」と思われるかも知れない。しかし私たちにとって大切な存在(導いてくれる人・背中を押してくれる人)との間で、同様の体験をすることがあるのではないか。例えば家族で、「亡くなったんだけど『いなくなった』とは思えない…実際に声を聞いたり手を引いたりはしてくれないけれども、何かの時には見ていてくれる・導いてくれる…」そんな存在である。
直接教えを聞く形ではイエスは「もういない」。しかし迷った時、悩んだ時、イエスは心深くで共におられて支え励ましてくれる…。それが「いるけどいない、いないけどいる」そんなイエスと弟子たちとの関わりである。
では、そのイエスが最後に命じられたのはどんなことだったか。「全ての民を私の弟子とし、バプテスマを授け、命じたことを守るように教えよ」。これは「イエスの大宣教命令」と呼ばれるものである。牧師になろうとする人がこの言葉を引用することが多い。しかし「大宣教命令」は、牧師だけに与えられているものではなく、イエス・キリストを信じるひとりひとりに託された、イエスの遺言のようなものだと思うのだ。
コロナの3年が過ぎ去り、新たな日々が始まろうとしている。私たちも「守る・維持するモード」から「出会う・開かれるモード」へと心のシフトチェンジをして、「すべての人に宣べ伝えよ」と示されたイエスの最後の願いを、喜びをもって担う者となろう。