2023年5月28日(日)ペンテコステ
創世記11:1-9、使徒言行録2:1-11
今日はペンテコステ(聖霊降臨日)。イエス・キリストの十字架と復活の後、イエスが昇天されたことによって再び「師の不在」の状況に置かれた弟子たちに、聖霊の導きが降り教会の宣教が始まった日だ。その聖霊の働きを、使徒言行録は「激しい風が吹いてきた」「炎のような舌がひとりひとりの上にとどまった」と記す。
炎の赤はペンテコステのシンボルカラー、灰色(レント)から白(イースター)、そして赤(ペンテコステ)に至る流れ、それは「灰から光へ、そして炎へ」という意味合いを表している。その炎の暖かな導きに支えられて、教会の宣教が進められていくのが「聖霊降臨節」だ。
ペンテコステにはもう一つ、不思議なことが起こった。聖霊を注がれた弟子たちが、いきなり他の国々の言葉で話し出したというのだ。使徒言行録には16の国名・地名が記される。ガリラヤ出身の「無学な」弟子たちが、いきなり語学の天才になった、ということか。その異様な様子を見て「ヤツらは酒に酔っているのだ」と嘲った人もいた。
この出来事を聖書的な文脈で理解するためには、旧約聖書の出来事を踏まえる必要がある。それが創世記に記されたバベルの塔の物語だ。天地創造以来、地上に増え始めた人類は、自らの知恵や開発した技術を用いて天に届く塔を作り始めた。天におられる神の座に迫ろうという思い、それはおのれの知恵や文明を誇る人間の傲慢な姿である。
この計画に対して神は「人の言葉を混乱させる」という形で報いられた。それ以来、人類は地域ごとに異なる言語を話し出したというお話である。これは「人はなぜ異なる言葉を用いるのか?」という疑問に対する、聖書からの応答だ。それは人間の思い上がり=罪に対する神さまからの罰なのだ…というメッセージである。
確かに言葉の違いは、人と人を分断する大きな壁となる。よそ者とわが者を区分けし、殻を閉ざす要因となる。人間の知恵は、傲慢さとつながると、争いの元にもなる。アダムの堕罪がその原因なのだ、ということである。
しかしそれ以前に、人が言葉を持ったのは何のためだったのだろうか。互いに罵倒し争うため?言葉の違いによって差別をするため?そうではない。人が言葉を持とうとしたのは自分の思いを相手に伝えるため、共に生きるためではないか。そこには相手を大切に思う気持ち、即ち「愛」があったのだ。
ペンテコステ、それは人の知恵や言葉の違いを超えて、人間本来の「共に生きる」道を示してくれた神さまの導きではないだろうか。他の国の言葉で話す弟子たちの姿は、この日を境にイエス・キリストの福音の豊かさ(自分を愛するように隣人を愛する)が、言葉の違いを超えて全世界に告げ広められていったことを表しているのだ。
実際はこんなにいきなりではなく、もっとたどたどしい片言からの始まりだったかも知れない。しかし思いだけは熱いものがあった。その情熱に導かれて、イエス・キリストの福音は、人から人へ、民から民へと少しずつ広げられていったのだ。
コロナ感染症は、私たちの間に新たな分断を引き起こした。そしていま世界は、戦争や勢力争いにより新たな分断と対立が生まれている。しかし私たち人間は、対立し争うために造られたのではない。共に生きるため、愛し合うために創造されたのだ。人の知恵と言葉を超え、人々が同じ福音を聞いたペンテコステを覚え、私たちも分断と対立を超えさせてくれる聖霊の導きを信じて歩んでゆこう。