『 聖霊(スピリッツ)に酔い、幻を見る 』

2023年6月4日(日)
出エジプト19:3-8a、使徒言行録2:14-21

会議や集会などで、堂々と、理路整然と、自分の意見を言う方がいる。一方、しどろもどろで何を話しているのか分からない人もいる。先日行われた教区総会で、要点を得ないわかりにくい発言をされる人の言葉を聞いていて、「今この人は聖霊に満たされて話をしておられるのかも知れない」そんな風に感じた。

きっぱりと発言される人の言葉は、ストックフレーズ(常套句、定型句)であることが多い。誰かが既に言ったことで、自分が納得している言葉は、澱みなく口から溢れ出る。しかしそれまで誰も言ったことがない、その場で思いついたようなことについての発言は、要点を得ない。「聖霊に満たされて語る」とは、そのような姿だったのではないか、と思うのだ。

今日の聖書にはいずれもひとりの人が大勢の人に向けて語った言葉が記されている。旧約はモーセ。エジプト脱出を果たし、これから約束の地に向かう歩みに向けて、モーセが神の言葉を取り次いだのがこの箇所だ。

「もし私(神)の声に聞き従い、私の契約を守るならば・・・あなたがたは私の宝となる」と語るモーセ。いったいどんな表情でその言葉を語ったか?自信たっぷりに?いやむしろ、要領を得ない話し方だったのではないか。何せ彼は召命に際して「私は弁の立つ方ではありません」と述べているのだから。

新約はペンテコステ直後のペトロの説教。聖霊に満たされて語るペトロはどんな姿だっただろう?こちらもまた、的を得ない、しどろもどろの発言だったのではないかと思う。その姿を見て、嘲る者たちが言った。「あれは新しい酒で酔っているに違いない」。

ペトロは反論する。「今は朝の9時ですから、私たちは酒に酔っているのではありません」…。私はこの反論に説得力を感じない。私の拙い人生経験の中でも、「朝9時なのに酔っている」ということは何度も覚えがある。人が「朝9時なのに酔っている」ということは十分あり得る話である。ペトロは酔っていた…ハタから見てそう見える状態だった。決してしらふ(平常心)ではなかったのだと思う。

お酒のうち、蒸留酒のことを「スピリッツ」と称する。この言葉は同時に「精神・霊魂」を表す言葉でもあり、聖霊(Holy Spirit)ともつながる言葉だ。その語源はラテン語の「スピリタス」、それは「息・風」という意味だ。

ペンテコステの日、不思議な風に吹かれた弟子たちは、その「スピリッツ」に酔っていたのではないか。昨日までの冷め切ったあきらめの心ではなく、熱く燃える「聖なる酔っ払い」の心境…聖霊に酔い、ヨエルの預言(3章)通りに、聖霊に酔って夢や幻を見たのではないだろうか。

何か新しいことが始まろうとしている時、「現実的判断」ばかりしていると消極的になってしまう。時には常軌を逸して、夢や幻を見ること、そうして聖霊の導きに委ねること。そこから冒険(チャレンジ)が始まってゆく。