2023年6月11日(日)花の日・こどもの日CS合同礼拝
マタイ6:28-31
童謡「チューリップ」では、「どの花見てもきれいだな」と歌われます。今日皆さんが持ち寄ってくれたお花は、どの花見てもきれいです。でも、道ばたのコンクリートの割れ目から生えている雑草に咲いている花を見て、「きれいだな」と思いますか?
ぼくは毎週の教会掃除で外回りを担当します。3月から10月にかけては、草抜き用の小さな鎌を持って、雑草をまだ小さなうちに抜いています。放っておくと大きくなって、車を駐車したり右左折する時に邪魔になるからです。大きくなると厄介なので、小さなうちに抜いてしまうのです。この姿、誰かに似ていませんか?
「大きくなると厄介だから、小さな子どものうちにやっつけてしまおう」・・・ それはイエスさまの誕生物語に登場するヘロデ王の姿です。東方の博士たちから「ユダヤ人の新しい王はどこですか?」と聞かれて不安を感じたヘロデ王は、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしました。雑草を、小さなうちに摘み取ってしまおうという僕の行為は、このヘロデと同じだなーと思うことがあります。
「雑草は人間の邪魔になる。だから抜かれても仕方ない。」そう考えていたら、「じゅんさん、それは違いますよ」という声が聞こえてきました。朝のTVドラマ「らんまん」の中で、牧野富太郎(ドラマでは万太郎)という植物学者がこう言ってたんです。「雑草という草はありません。どの草花にも必ずそこで生きる理由がある。そこで咲く意味があるのです。」人間の都合で「これはきれいな花。これはいらない草」と決めつけていくのは間違いかも知れないなーと気付かされました。
それでも僕は草を抜きます。草がぼうぼうと生えている駐車場は、やっぱり見てて荒れ果てているように見えて残念に思うからです。でもこれからは抜きながら「ごめんなー。人間の都合で抜いてしまって…」とあやまりながら抜くことにします。
イエスさまは名前も知らない野の花の中に、神さまの造られた命の美しさを見ておられました。どんな小さな野の花も、ソロモン王よりもきれいだ、と。そしてもうひとつ、イエスさまは大切なことを教えられます。「明日は炉に投げ入れられる野の花でさえ…」と言われます。なぜ炉に入れられるのか?それは、花は枯れるからです。
もしも絶対に枯れない花があったら、私たちはそれを見て「きれいだな」と思うでしょうか?ホテルのロビーですごい豪華な生け花を見て、それが造花だと分かったら、がっかりしませんか?花の命には終わりがある。だから咲いている今が美しいのです。
私たちひとりひとりにも、神さまの愛が注がれています。みんな「どの人見てもきれいだな」なのです。そして私たちの命には限りがあります。だからこそ、生きている今、生かされている今がすばらしいのです。
♪「名前も知らない野の花も、神さまは咲かせて下さる」って、イエスさまのおことば(こどもさんびか58)イエスさまのお言葉に支えられて、私たちも自分だけの花を咲かせましょう。