『 罪の赦しを得るために 』

2023年6月18日(日)
申命記8:11-20,使徒2:37-41

今日の旧約の箇所・申命記8章には「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。」と記される。この「戒めと法と掟」とは、十戒・律法のことである。613にも及ぶ条文があり、イスラエルの人々はこれを大切に守って来た。

こう言うと、イスラエルとはさぞかし信仰深い敬虔な人々なのだろう…という印象を受けるが、裏を返せば「それほど多くの条文がないと何をしでかすか分からない人々」ということなのかも知れない。

聖書の基本的な人間理解は「性悪説」。「人はみな生まれながらにして罪人」というものである。ではその「罪」とは何か?今日の箇所によれば「(神への感謝を忘れ)自分の力でこの富を築いた」と思い上がることである。

この後の旧約の物語を読めば、イスラエルの人々はしばしばこの罪の誘惑に陥って来た。だからこそ彼らには律法が必要、神の戒めに照らして自分自身を吟味する作業が必要だったのだ。

自分の罪を見つめそれを悔い改める作業は、決して楽しいものではない。しかしそれはみじめなだけのものではなく、それをくぐり抜けたところにある暖かさ・清々しさを覚える経験でもある。「人から言われて…」ではなく、自分で自分の罪に気付き悔い改めることは、信仰者にとって大切な振る舞いである。

新約はペンテコステの聖霊降臨の出来事直後のペトロの説教。その内容は①イエスがメシヤであること、②そのイエスをあなたがたユダヤ人は十字架につけて殺したこと、③しかし神はイエスに復活の命を備えて下さったこと…であり、最後にこう言い放つ。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主としメシヤとなさったのです。」

聞いた人の多くはこの言葉に心打たれ「私たちはどうしたらよいのでしょう?」と尋ねると、ペトロは言った。「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」。この言葉に応えて、洗礼を受けた人がその日のうちに3000人いたという。何という数字であろうか。それだけイエスの十字架をめぐって「疚しさ」を感じていた人がいたということか。

ところで、この「罪の赦しを得るために洗礼を受ける」という言葉に、私は少々引っかかるものを感じる。このことはキリスト教にとって大切なテーマだということは分かるのだが、「罪の赦しを得たければ洗礼を受けねばなりません」と言ってしまう時、そこにカルト宗教的なニュアンスを感じてしまうのである。

はたして、洗礼を受ければ「完全に」罪は赦されるのだろうか?そんなことは「ない」。洗礼を受けた後も私たちは罪を犯し続けてしまう。しかし洗礼を受けることによって「自分の罪から離れたい」という願いは生まれると思う。

あるいはこうも言えるかも知れない。「自分の罪を認めて悔い改めよう」という人間の努力とは関わりなしに、神さまは私たちの罪を赦して下さっている。そのことを知らせるためにイエス・キリストをお遣わしになった。その神の愛を知り、感謝をもって受け入れるところに、洗礼を受ける決意が導かれる…と。

いずれにしても、「罪の赦し」とは、ちょっと何かをすれば達成できるような簡単な課題ではない。一生かけて取り組むような息の長い課題である。でもだからこそ、そこには人生の本当の豊かさ・暖かさに出会える道のりでもあるのだ。「主の慰めを受け、歌声を響かせながら」(2023年度教会年間標語)、共にその道を進もう。