『 心の渇きを癒す方 』

2023年6月25日(日)
イザヤ56:3-7,使徒8:26-38

ペンテコステの出来事て強められた使徒たちの宣教によって、イエス・キリストの福音は世界中の人々に伝えられていった。聖霊を受けた使徒たちが突然外国の言葉で語り出した…というエピソードは、そのことを物語っている。これはイエス・キリストを信じる信仰が、ユダヤ人の間のみならず、異邦人に間でも広まったことを意味する。これは私たちが考えるよりも大きな変化である。

その最初の異邦人キリスト者の誕生を伝えるのが今日の箇所である。中心となる人物はフィリポ、12使徒の働きをサポートするために選ばれた7人の執事の中のひとりである。

ある日フィリポは、夢で「ガザに行け」との天使のお告げを受けた。示された地に出かけると、そこに一つの出会いがった。あるエチオピア人の高官との出会いである。

その高官の名前は分からない。しかし名前以上に大切なことが記される。彼は女王カンダケに仕える宦官で、財産の管理を任されていた。「宦官」とは高貴な人に仕えるために、去勢をしてその位につく人のことである。彼は生殖の機能を捨てるのと引き換えに、重要な任務を担う立場となる。

彼は生涯を女王にささげた。そして十分な名誉や報酬を受けていただろう。しかしそれで人は幸せになれるわけではない。生活は物質的には満たされていても、彼の心は深いところで渇いていたのではないか。

私たちの中にも同じ思いを抱く人がいるのではないか。家族のため、会社のため、全てを犠牲にして懸命に働く…でも心の奥底では「私の人生はこれでいいのか?」という悩みが生じる…そんな心の渇きである。

彼はエルサレムの礼拝に出席し、その帰り道であった。どうしてそんなに遠くまで…?それはシェバの女王の時代からの伝説で、エルサレムには知恵ある民族が住んでいるとの思いがあったからではないか。そしてすがるようにしてエルサレムでの礼拝に出席し、その帰り道の途中でフィリポに出会うのである。

宦官はその時イザヤ書53章の「苦難の僕」の箇所を読んでいた。そして出会ったフィリポによってその解き明かしを受けた。この苦難の僕とはイエス・キリストのことであり、その方によって救いが与えれるということ。イエスはひとりひとりを何よりも愛して下さる神のことを語り伝えた方であるということ…。フィリポの語る福音は、彼の渇いた心に沁みわたったことだろう。

「苦難の僕の詩」の少し先、イザヤ書56章には、宦官や異邦人の救いに関する神の言葉が記される(56:3-7)。この言葉をもし宦官が読んでいたなら、きっと深い慰めを得たことだろう。

途中で水のある場所にさしかかると、宦官は言った。「ここに水があります。私に洗礼を授けていただけませんか。」フィリポはこれを聞き、即座にその場所で洗礼を授けた。するとフィリポの姿が見えなくなった、と記される。信仰の手引きをしてくれた人が、いきなりいなくなった。心細くなっても仕方のない状況だが、宦官は喜びあふれて旅を続けた。彼の心に、もう悩みはない。心の渇きを癒す方=イエス・キリストとの出会いが与えられたからである。