『 文化も生まれもすべて超えて 』

2023年7月2日(日)
ルツ1:15-18,使徒11:4-18

「多文化共生」― それはこれからの私たちの社会の大切なキーワードだ。しかしこのテーマは「言うは易し、行なうは難し」だと思う。文化や生活風習の違う人たちと共に生きることはそんなに簡単なことではない。それは自分の中に沸き起こる「違和感や不快感」と、どう折り合いをつけるか…という道のりでもあるからだ。

それでもこの課題に向かう以外に私たちに未来はない。共に生きる努力よりも自分の違和感や不快感を優先すると、その先にあるのは分断、差別、対立であり、戦争である。だからそれは、平和につながる大切なテーマでもある。

今日の箇所は、ペトロがヤッファで見た不思議な夢に関するエピソードだ。天から大きな布が降りてきた。そこにはいろんな生き物が入っており、「ペトロよ、これを屠って食べなさい」と天の声が響いた。その中にはユダヤ人にとっては「汚れている」生き物も入っていたので、「清くないものは食べられません」と言うと、「神が清めたものを汚れたと言ってはならない」と声がした…そんな「ヘンな夢」だった。

この夢の背後には、使徒たちの宣教により教会の中に異邦人が増えているという状況があった。その人たちが礼拝の中で主の食卓の席についたところ、「割礼を受けていない者(異邦人)とは一緒に食事をしたくない」という人々が現れた。保守的なユダヤ人の中には、異邦人を「汚れている」と考える人がおり、その人たちがクレームをつけたのだ。

「異邦人=汚れ」とされていた根拠、それが食べ物に関することだった。例えばユダヤ人が「汚れている」と考えた豚肉を、異邦人は平気で食べていた。「そういう人たちと一緒に食事をすると、こっちまで汚れる」と考えたのである。人は誰でも、気心知れた人たちと心地良く過ごしたい…という願いを持っている。加えてユダヤ人には強烈な「選民意識」があり、それが結果的に異邦人を排除する考え方につながっていった。

ペトロの見た夢の意味は、ユダヤ人にとって皮膚感覚とまでなっていた「汚れ」という感覚を、「乗り越えなさい、そして共に生きる者となりなさい」という神さまからのメッセージだった。この言葉を受け、異邦人たちとの交流を深めたペトロはこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことがよく分かりました」(使徒10:34)。それはイエス・キリストが生涯を通して求め続けた「心の違和感や不快感を乗り越えて、共に生きる」というテーマに重なる言葉であった。

社会が新しくなろうとする時、旧来の価値観に安住する人たちとの間に軋轢が生じる。そんな時、どうしたらよいのか?決まった答えや明確な判断の基準があるわけではない。そんな中、迷う私たちを導いてくれる「問いかけの言葉」がある。「こんな時、イエスならどうされるだろう?(What would Jesus do?)」。この問いかけを誠実に自分に向ければ、答えは自ずと導かれる。

守旧派からの抵抗があった中で、初代教会は異邦人伝道推進に舵を切った。その決断のおかげでイエス・キリストの福音は、文化も生まれもすべて超えて世界に広まった。