『 となりびとになりましょう 』

2023年8月6日(日) 平和主日
出エジプト22:20-26,ローマ12:9-21

8月は日本社会に生きる者にとって、戦争と平和を考える季節である。今日は8月6日、広島原爆の日。それに先立つ昨日8月5日は前橋空襲の日、今年はマッテヤ教会で前橋一斉慰霊式が行われた。

被害の歴史だけではない。加害の歴史も忘れてはならない。本日お配りした「関東教区『日本基督教団罪責告白』」はそのことに触れている。非人道的にも思える原爆投下も「日本の加害の拡大を防ぐため」と正当化されるロジックもある。

あれほど多くの犠牲者(6000~8000万人)を出した第2次世界大戦の痛みがあったにも関わらず、地上から戦争は無くならない。戦争には勝ち負けがあるが、負けた方だけでなく勝った方にも犠牲者はでる。兵士だけではなく、市井の庶民にも被害が及ぶ。その意味で、戦争は始めた時点ですべての人々が「敗者」なのだと思う。

出エジプト記の律法の中で、神はイスラエルの人々に「寄留者・寡婦・孤児を大切にせよ」と命じられた。これらの人々は社会で最も弱い立場の人である。そのいと小さき者を憐み守られるのが聖書の神の姿である。

しかし旧約の時代は「いと小さき者を大切にする」という思いが、まっすぐに戦争反対ということには向かわなかった。むしろ小さい者が知恵と勇気を絞って戦い、強い相手を打ち負かすという物語が好まれた。ヨシュアのエリコの戦いも、ダビデとゴリアトの物語も、そのような「ジャイアントキリング」のストーリーである。

現在でも似た心情はある。大国ロシアの侵攻に対してウクライナの反転攻勢が始まると、それを応援してしまう心理である。しかしそれでは結局は戦争は終わらない。そしてその結果として、「寄留者・寡婦・孤児」のようないと小さき者が犠牲となってしまうのだ。私たちが聖書からまことの平和をもたらす教えを聞くには、旧約だけでは限界がある。私たちはイエスの登場を待たねばならない。

今日のローマ書の「迫害する者のために祈れ」という言葉は、「やられたらやり返せ」「小さな者でもうまく出し抜いて強い相手を倒せ」といった考えとは異なるベクトルを持つものだ。パウロはそれをイエスから学んだ。十字架の上で敵のために赦しを願うイエスの姿から。そのイエスの生き様をひと言で表すなら、「愛」という言葉に尽きる。その愛こそが、地上にまことの平和をもたらす礎となるのだ。

しかし自分に敵対する人を、私たちは本当に愛せるだろうか。「そんなこと無理ではないか」という本音も浮かぶ。けれども、「愛する」とは「好きになる」ということと必ずしもイコールではない。憎っくき相手でも、恨みが残ったままでも愛することはできる。その相手をそれでも大切にする。その存在までも否定はしない。そして仲良きパートナーにはなれなくても、「となりびと」となる。それが愛なのではないか。

「復讐するは我にあり」―「神が報復される」という旧約の言葉を、パウロは「人間は報復してはならない」と読み替えた。復讐心を我慢せよ、ということだ。まことの平和を目指すために、いと小さき者が犠牲になることを防ぐために、そのような心を持つ「となりびと」となろう。