20231年8月13日(日)
エゼキエル12:21-28,ルカ12:35-48
キリスト教には「終末論・終末信仰」という考え方がある。ひとりの人間の生涯に始めがあり終わりがあるように、この世界にも始めがあり終わりがある…それが聖書の世界観である。
キリスト教の教派の中にはこの終末論を強調するグループもあるが、私はその独特のおどろおどろしい世界観が正直苦手である。「終末に永遠の罰を受けたくなければ、悔い改めて信仰を抱け」と脅すような宣教のやり方は、とても共感できない。しかし聖書に終末論が記されているのも事実である。
終末論の真髄とは何か?それは「今がすべてではない」ということに尽きるだろう。今の時点においてすべてに恵まれ成功を納める人に対して、「有頂天になるなよ、今がすべてではないぞ」と戒める。逆に今何をやってもうまくいかず、絶望を抱く人には「あきらめるなよ、今がすべてではないから」と励ます。そのような受けとめ方こそ、終末論の真骨頂であろう。
今日の聖書、旧約はエゼキエル書12章。ユダ王国がバビロン捕囚に向かっていく時代に活動した預言者の言葉である。「日々は長引くが、幻は消え失せる」(12:22)=夢も希望もない現状がいつまでも続く…そんな絶望感が人々の心に広がる中で、「そんなことはない!幻は実現する!」と語る(12:23)。自らはこれから受ける捕囚の苦しみをパフォーマンスとして先取りして体現しながら(12:1-20)、「それでも神の救いは来る!」と断言する。「今がすべてではない!」と信じる心。それが終末信仰の強さである。
新約はルカの伝えるイエス・キリストの教え。これも終末についての言葉である。終末がいつ来てもいいように、備えをしていなさい、とイエスは語る。その終末とは、どのような出来事なのか?恐るべき裁きの時?確かにそのような記述も聖書にはある。
しかしイエスの語る終末は、基本的には希望の日、それは「神の救いの完成のとき」である。直前の「思い悩むな=空の鳥、野の花の教え」のところでは、最後にこう言われる。「恐れるな、父は喜んであなたがたに神の国を下さる」(12:32)。神の救いは必ず来る、だから備えていなさい、と言われるのだ。
どう備えれば良いのか?それは備えをしていない人の姿についての言葉(12:45-46)から推察できる。「神の国など来ない」とあきらめ、今の自分の欲望のまま放縦に任せて生きる…それが「備えていない人」の振る舞いである。
今の時点では望みが薄くても、その現実の中であきらめずに神の救いを信じ、ただ神のみこころを尋ね求める生き方、それが「備えている」ということだ。「そんな世界など、来るはずないさ…幻などすべて消え失せる…」とうそぶく声が聞こえるかも知れない。そんな声に対してイエスは言われる。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(ルカ21:33)。
コロナの3年間の体験で、私たちの夢や幻を信じる心がずい分萎えてしまったことを感じる。しかし困難な現実に軸足を置くのではなく、未来の希望に軸足を置く生き方を、終末信仰から学びたい。