『 喜びの安息日 』川上盾牧師

2023年8月27日(日)
出エジプト23:10-13, ルカ14:1-6

七日に一度仕事を休み、礼拝をささげる…この安息日のシステムはユダヤ教の「発明」だ。6日働いて1日休む…そのサイクルは理にかなっているように思う。3日に1度では休み過ぎ、10日に1度ではきつ過ぎる。7日に1度が「ちょうどよい」。もともとは労働者が疲労を回復し、礼拝を通して精神もリフレッシュするための日。今日の旧約の箇所に「元気を回復するため」と記される。「元気(人間性)を回復する喜びの日」、これが安息日をふさわしく過ごすキーワードだ。

ところが時を重ねるに従って、安息日は喜びの日ではなく、忍耐と苦渋の日へと転換する。「安息日は聖なる日」との側面が強調され、「その日に仕事をする者は死刑」といった恐ろしい罰則を伴う掟となっていった。強圧的な律法支配を民衆に強いたのが、イエスの時代の律法学者たちである。そんな彼らと、イエスとのある種のバトル…それが今日の新約の箇所である。

「ある安息日にイエスは食事のためあるファリサイ派の議員の家に入られた」とある。「えっ?」と思われた方もいるかも知れない。厳格な律法主義者にとって、安息日は断食の日であった。イエスを招いた議員は、律法の解釈においては「ユルい」人だったのかも知れない。

そこに水腫を患う人がいた。「水腫」とは体の体液が臓器の外に漏れ出てしまう症状で、全身がむくんだという。気の毒な症状ではあるが、その日に何とかしなければ命がなくなるほどの緊急性はない。イエスが「なるべく波風を立てたくない」という考えの人だったならば、一日待って、次の日に癒すことだってできた。

しかしイエスは敢えて掟を破る形でその人を癒される。少し前の箇所では(13:10-13)やはり安息日に「腰の曲がった人」を癒された。緊急性もないのに敢えて「掟破り」をされるイエス。そこには明確な基準があった。いずれもその人の身体が元気を回復する、そうして喜びが与えられる…それが根拠である。

安息日の掟が人々の暮らしを重たく支配している…そんな状況にイエスは黙っていられなかったのだ。マルコ2:27で語られたイエスの言葉、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、これほど律法と人間との関係を見事に表す言葉を私は他に知らない。

「安息日は喜びの日である」イエスはそう教えられる。そしてキリスト教はその上にもう一つ大切な意味合いを上書きしている。それはユダヤ教では土曜日だった安息日を、日曜日に移し替えたことだ。なぜか?それは日曜日がイエスの復活の日であるからだ。

「安息日は身体と心の、人間性全体の回復の日である」と申し上げた。しかし人間はやがて死を迎える。どんなに病気を克服しても、最後の運命から逃れることはできない。けれども、キリスト教信仰では死がすべての終わりではない。死の空しさを超える復活の交わりが約束されている。そのことを覚える意味でも、安息日は「喜びの日」なのである。

「毎日忙しくて、日曜日くらいゆっくり休みたいよ、教会どころじゃないよ…」という声を聞く。気持ちは分かるが、そんな人にこそ、本当は「安息日の礼拝」が必要なのではないか。社会の責務や肩書から解放され、この世の様々なしがらみからも離れ、いのちの源である神さまと祈りを通して触れ合い自分を見つめ直す…そんな「喜びの安息日」を大切に歩みたい。