2015年3月22日(日)
ルカによる福音書20:9-19
今週3月26日は沖縄戦の開戦から70周年の節目にあたる。太平洋戦争末期、3カ月にも及ぶ地上戦で20万人もの人が命を落とした出来事。軍人よりも民間人の犠牲者の方が多かったという。「松代大本営」の完成まで米軍を釘付けにする目的があったと言われることから、「本土防衛の捨て石作戦」と呼ばれる。
その捨てられた沖縄が、戦後は米軍のアジア戦略上「太平洋の要石(The keystone of Pacific)」と呼ばれるようになった。現在も沖縄のあちこちに広大な米軍基地が置かれ、今また沖縄の民意に逆らって新たな基地の開設計画が進められている。米軍にとっては要石、しかし日本政府からは再び捨てられようとしているのか。
「家を建てる者の捨てた石が隅の親石となった。」イエスも引用される詩編118編の言葉である。イエスがご自分の受難を予言された「ぶどう園と農夫のたとえ」のしめくくりとして、この言葉は引用された。
たとえ話の解釈は次の通りである。ぶどう園の主人とは神さまのこと、ぶどう園を預かった農夫とは律法学者・祭司長ら宗教的指導者たちのことである。「収穫の時」とは彼らの指導によって人々が導かれた姿を見極める時であるが、その役目を担う僕たち(預言者たち)は農夫たちによって排斥されてしまう。
最後に主人は自分の息子(神の子・救い主キリスト)を送る。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」ところが農夫たちはこの息子を殺してしまった。主人は戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人に与えた…。
このたとえをどう読めばいいのだろうか。「最後は神が報復して下さる、だからそれを待て」ということだろうか?イエスがそのような主旨のことを言われたとはとても思えない。「やられたらやりかえせ」では世界は改められないことを一番知っておられたのはイエスだと思うのだ。
ここであの詩編の言葉が引かれていることの意味を考えたい。殴られ、蹴られ、排斥された人の存在が、家全体を支える大切な働きを担うようになる、ということ。イエスはこれから起こる十字架の出来事を、そのようなものとして受けとめなさい…そう諭しておられるのではないだろうか。
『遺憾なことに、ほんとうのものは、大抵は痛ましい中から生まれるものだ。』
陶芸家の河井寛次郎が、彫刻家の棟方志功に送った言葉である。「痛ましいもの」。戦争、災害、突然の事故、病気、人に捨てられるような体験。それらは決して起こってはならない出来事だ。しかし大変遺憾なことではあるが、その痛ましいものを経験することを通して、大切なものに目を開かれることがある。
戦争によって気づかされる平和の尊さ、災害の非日常の苦しみによって知らされる平凡な日常の大切さ、病気によって気づく健康のありがたさ。それらはみな「痛ましいもの」によって「ほんとうに大切なもの」に気付かされる体験だ。「捨てられた石が隅の親石となる」とは、そのような気づきのことを表しているのではないだろうか。
イエスの十字架こそ、「捨てられた石が親石となる、神のなされる不思議なこと」、その最たるものである。