2023年9月3日(日)
ルカ14:7-14
自然界の生き物で人間だけが持っている特質の一つに、「贈与と返礼の関わり」があるという。自分が得たものを自分や家族だけのものとせず、他者に贈与する…贈与を受けた人はそれに対する返礼の強い責務を抱く(反対給付)…そのような心情が物の交換を加速してゆき、経済活動などもその中から生まれた、と人類学者は説明する。
ここでもう一つ重要なポイントは、贈与を受けた人の反対給付の向かう先は、直接贈与者に向かわなくてもよい、むしろズレていってよい…という点だ。お世話になった先輩への感謝の思いを、後輩たちに注いでいく…みたいなあり方だ。私たち人類はそのような心情を抱えながら、太古の昔から生き続けてきた。私たちは「贈り、贈られる生き物」だ。言い換えれば「招き、招かれる生き物」と言えるだろう。
今日の箇所は、招き、招かれるに際して大切にすべき作法をイエスが教える箇所である。「招かれた時には上席に座らず末席に座りなさい」とイエスは教える。控え目を美徳とする人は「そんなことは当たり前だ…」そう思うかも知れない。しかし選民意識の強いユダヤ社会では様相が違ったようだ。「私は当然神の招きにあずかれる」といった特権意識を、イエスは批判されるのである。
「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14:11)、それが「招かれる作法」をめぐるイエスの教えだ。これもまた「そんなの当然」と思われるかも知れない。しかし続けて語られた「招く作法」についてはどうだろう。
「宴席に招くときは、兄弟・家族・近所の金持ちを招くな」とイエスは教えられる。なぜか?彼らは返礼をするから…というのだ。むしろ返礼ができない貧しい人や体の不自由な人を招け、と言われる。彼らは返礼ができない、だからあなたは幸いだ…と。要するに「返礼を期待して招待するな」ということだ。「そんなこと誰もしませんよ…」と思うかも知れないが、話はそんなに簡単ではない。
私たちの心の中には太古の昔から抱いてきた「返礼への思い(反対給付の責務)」があるからだ。この思いは、気をつけないと無意識のうちに他者への非難を生み出す。「これだけしてあげてるのに、なーんにもないんかねぇ…」そのようについつい人を裁く根拠となる。それでは結局見返りを求めて贈り物をするのと同じである。
イエスは見返りを求めず人を招け、と言われる。それはイエスの宣べ伝えた神が、条件や見返りを求めずに一人一人の人間を愛し、招いて下さる方だからである。その招きにただ感謝して応えなさい…それがイエスの語られた福音(よき知らせ)だ。
そうは言っても、です。私たちの心にはその神の招きに対する拭い去れない「返礼への思い」が立ち上がる。それは太古の昔から抱いてきた人間ならではの心情である。その思いをイエスは行き場のないまま放置されることはない。ちゃんとその行く先を示される。「互いに愛し合いなさい」。そのようにして神への返礼の思いを、「ズレていく反対給付」として身近な人に向ければよいのである。
会津の雪道での体験。運転中雪の轍に車輪がはまってしまい、動けなくなった。後ろには長蛇の車列、焦れば焦るほどタイヤは空転する。すると後ろの何台かのドライバーが車から降りてきて、みんなで押してくれたのだ。おかげで動き出せたのだが、止まってお礼を言うとまた動けなくなるかも知れないから、ちゃんとしたお礼もせずに窓から手を振りながら走り去らねばならなかった…。さて、このような経験をした人間はそのあとどうなるか。今度は自分の前に動けない車がいるのを見たら、舌打ちしたりイライラしてクラクションを鳴らしたりせず、「降りて押してあげよう」という気持ちに自然になるのである。そうやって、その人の車を押しながら、かつて自分の車を押してくれた人に「ありがとう」と言う…そんな雪国の風情がある。
神から見返りを求めず招かれ、与えられた私たち。その感謝と返礼の思いを、今度は人を招き、人に与える形でお返ししよう。
「報いを望まで人に与えよ」(讃美歌566)。