『そこにひとりの人間が』川上牧師

2023年10月1日(日) 世界聖餐日
ヤコブ2:1-9

今日は世界聖餐日。20世紀の二つの世界大戦で、キリスト教会は戦争を防ぐ力になれなかった、むしろ互いに争ってしまった、そのことの反省から、世界の教会の人々が共に聖餐にあずかり、平和と和解を目指そうと始められた行事である。

分断と対立を癒すことを目指した人々が、その思いを教会の共通する部分である聖餐式に託したことは興味深い。対立する状況にあっても、それでもお互いの間に横たわる「同じ!」と感じられるもの、それが共存を可能とする思いにつながることを思う。

「イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(2:1)とヤコブは語り、豪華な身なりの人にはうやうやしく対応し、貧しい身なりの人はぞんざいに扱うことが戒められている。「そんなあからさまなことはしませんよ…」と思うかも知れないが、似たようなところは私たちにもある。人を属性(人種・民族・肩書・職業・学歴)で見、態度を変えるなら、同じ穴のムジナである。

属性で人を判断する…そのような心理が集団で膨れ上がると、恐ろしいことを生み出す原因ともなる。今年100年目となる関東大震災では、直後に朝鮮人虐殺が起こった。「井戸に毒を入れる」といったデマが広がり、自警団が組織され多くの人が殺されたのだ。

昔の話ばかりではなく、現代でも同じことは繰り返される。2年前、京都のウトロ地区(在日コリアンの多く住む地域)で放火事件があり、7件の家が全焼した。犯人は22歳の男性で、「韓国人に対し敵対感情があった」と述べているという。その人のことを何も知らないで、「在日コリアンである」というだけで反感を抱く…そんな意識が招いた事件である。

この事件をめぐって、ウトロに住むあるハルモニ(おばあさん)がこう言われたという。「若い犯人はこんなことをして、貴重な人生を棒にふってしまったな。ビールでも飲んで一緒に語れば、そんなことはしなかっただろうに…」。人を属性で見て違いを際立てせるのではなく、同じ人間として出会い語り合うことの大切さを教えてくれる言葉である。

その人が「なに人」であるか、どんな職業か…そんなこととは関係なく、同じ人間として向き合うことの大切さを思う。どうすればそのような心境に至れるか?互いの違いよりも、同じところを見る・見ようとすることではないか。腹が減れば食べる、楽しい歌を歌えば心が躍る…「そこにひとりの人間がいる」そう思って向き合うことではないか。

「一緒にビール飲んで語り合えば、あんなことはしなかっただろうに…」とハルモニは言った。「一緒にパンを割き盃を分かち合えれば、互いに争うことはないだろうに…」と強く思う。そのようにして、ひとりの人間同士として向き合うことから、平和への歩みは始まる。