2023年10月22日(日)
士師記7:2-8,ルカ17:11-17
ある集団が何か事に取り組もうとする時、有能な人だけを集めて少数精鋭でやる、ということがよくある。できない人・苦手な人を含めてやるよりも、その方が効率的という訳である。今日の旧約は、少数精鋭で敵との闘いに勝利した士師・ギデオンの物語である。
敵との闘いに臨む陣を備えていた時、ギデオンは「数が多いから減らせ」との神の命を受けた。多人数で勝利を納めるとおごり高ぶるからだというわけだ。ギデオンは2万2千人から300人まで陣営を絞り、敵の大群に勝利した。少数精鋭での活躍が称賛されている…そんなお話だ。
一方新約はルカ福音書の「ムナのたとえ」(マタイでは「タラントンのたとえ」)。主人は旅に出る際、10人の僕に1ムナ(100万円?)ずつを渡し、「これで商売をしなさい」と命じて出て行った。言われた通り商売をして10ムナ・5ムナを儲けた僕は褒められたが、布にくるんで大事に取っておいた僕は厳しく咎められた…そんなお話だ。
子どもの頃、この話を読んで納得いかない思いがしたことを思い出す。確かに彼は他の人のようには利益を上げなかった。けれども、それを失うことなく取っておいたという判断は、ある意味堅実とも言えるのではないか…そう思っていたのだ(「投資」よりも「貯蓄」)。この物語に漂う「偉い人のご機嫌を取る”おりこうな人物”が褒められる…」みたいな話に反発を感じたのもあるかも知れない。
しかしある時、ひとりの牧師の解釈を聞いて考えを改めた。その牧師はこう言われた。「ここには二種類の人の姿しかない。預かったお金を元手に利益を上げた者と、使わずに大切に保管していた者。でも、もう一つの姿があるはずだ。それは預かったお金を用いて商売をしたが、利益を上げずに失った人だ。もしそんな人がいたら、主人はどうしたか?」。その牧師は言われた。「私は、主人はその人のことも褒められたと思う」。この解釈を聞いて、長年の胸のつかえが取れたような気がした。
このたとえで主人とは神さまのこと、ムナとはひとりひとりに与えられた賜物のことだ。神は各人に賜物を与え、それを用いて働くことを喜んで下さる。「布にくるんでいた人」とは失敗を恐れて賜物を退蔵してしまった人。それは神を悲しませる、ということだ。
これに対して3人目の人とは、賜物を用いようとして働いて、でも成果を上げられずに失敗してしまった人。「そんな人も神さまは褒めて下さる」という解釈に感動を覚えた。
ギデオンの活躍は素晴らしいもの…と思いつつ、そこには一抹の危うさを感じる。良い結果を出した”できる者”だけが褒められる、というような「成果主義」的な発想につながりかねないと思うからだ。
失敗を恐れて「こんなに小さな私には、何もできません」という歩みではなく、「こんな私ですが、できることをさせていただきます」と、失敗してもいいと思って申し出る…そんな関わりを、神は喜び祝福されるのだ。