2023年12月3日
イザヤ52:7-10,ヨハネ7:25-31
アドヴェント第1週、与えられた聖書(旧約)はイザヤ書52章、「いかに美しいことか、よき知らせを伝える者の足は」という言葉である。よくよく考えてみれば不思議な表現である。よき知らせ(福音)を伝える者の、声や姿ではなく、足が「美しい」と称賛されているのだ。
「福音」は聖書の言語・ギリシャ語では「エヴァンゲリオン」。元は戦争での勝利を伝える言葉だったという。その昔マラトンの戦いに勝利したことを伝えに、マラトンとアテネの間を走って伝え、息絶えた伝令の伝説がある(陸上競技・マラソンの由来)。命をかけて伝える「よき知らせ」、それが「福音」である。
その「福音を伝える者の足」とはどんな足か?美しい肌の形のよい足だろうか?むしろ各地を歩き回り擦り切れた傷だらけの足なのではないだろうか。見た目には決して「キレイ」とは言い難い…しかしその足を聖書は「美しい」と表現するのだ。
私たちは人の容姿や語る表情といった「見た目」、あるいは生い立ちや氏素性といった「属性」でその人のことを判断してしまう。しかし聖書が注目するのはその人の足、すなわちその人がどんな道を歩いてきたか、どんな人生を歩んで来たかということなのだ。
新約(ヨハネ福音書)は、メシアとしての明確な意思を抱いて宣教するイエスに対して、これをネガティブにとらえる周囲の人々の姿を記した場面。「我々はこの人がどこの出身かを知っている。メシアならばそんなことはないはずだ」と人々は語った。イエスがガリラヤ(『辺境』の意)のナザレ出身であること、その属性を理由にメシアとしての資格を疑ったのだ。
それに対してイエスは言われた。「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしを遣わされた方によって来たのだ」。このイエスの言葉は、「福音を伝える者」としての働きを担う上で、大切なのは出生地や家系・氏素性ではなく、神の御心をいかに感じ、その御心に従って生きようとしてきたかということを表している。すなわち、その人の「足」が大切だということだ。
イエスの生涯は、一人でも多くの人に神の愛を伝えるために、旅から旅を続けるものだった。その足は過酷な道のりの中で傷つき汚れ、擦り切れていたことだろう。そのイエスの足こそ、福音を伝える者の足、神の救いを世の人々に届けるための「美しい足」だったのだ。