2023年12月10日(日)
列王記上22:13-17,ヨハネ5:36-44
聖書から響いてくる二つの相反するメッセージがある。ひとつめは「あなたはあなたのままでいいよ」。自分以外の人間に無理してなる必要はない。そのままのあなたを神さまは愛しておられる...それはイエスの教えとその生きざまが示してくれる「あたたかい言葉」である。
もうひとつは「あなたは本当にそれでいいのか」。自分はこのままでいい…と努力を忘れ成長することを諦めてしまう…そんなズルい(弱い)心に向かって問いかけてくる「厳しい言葉」である。
もし私たちが暖かい言葉だけを聞きたいと思い、厳しい言葉からは耳を背けるならば、それは自分が聞きたい言葉を聞いているだけである。それでは「神の言葉を聞く」ことにはならないのではないか。暖かい言葉と厳しい言葉。この二つを聞いてそれに応えようとしてくところに、私たちの信仰生活というものがあるのだと思う。
旧約聖書は列王記に記されたエピソード。アハブ王の時代に活動した預言者ミカヤの物語だ。アラム人との闘いに挑むべきかについて、王は預言者たちを呼び尋ねた。彼らは「どうぞ攻め上って下さい。主は王の手に敵を渡されるでしょう」と答えた。王に忖度し気に入る言葉しか語らないおかかえ預言者たちであった。
もうひとり、ミカヤがいた。王はミカヤを嫌っていた。自分に都合の悪いことも語るからだ。しかし王はミカヤを呼び寄せる。使いの者は「どうか王さまに都合のよいことを語って下さい」と頼むが、ミカヤは「私は主の真実を語るだけだ」と突っぱねる。
ところがミカヤが語ったのは「どうぞ攻め上って下さい」という、他の預言者たちと同じ言葉であった。すると王は「お前はなぜ偽りを語るのか!」と憤慨した…そんな物語である。
なぜミカヤはそんなことを言ったのか。王を試そうとしたのかも知れない。アハブ王はどうして憤慨したのか。ひょっとしたらミカヤの語る「主の真実」を潜在的には求めていたのかも知れない。反発し悪さばかりする若者が、本当に叱ってくれる大人を心の奥底では求めているように…。
イエスは「わたしは人からの誉れは受けない」(5:41)と言われた。人からの評価を気にして言うことをあれこれ変えたり、忖度することはしない、ということだ。イエスこそ神から遣わされた「真実を語る預言者」であった。そのイエスの言葉を、世の人々は信じようとしなかった。それはイエスの言葉が耳に痛いから、ウケが悪いからであった。力と富とで世界の全てを動かせる…そんな思い込みを持つ人にとって、イエスの言葉は痛くて重いものなのだ。
イエスは神の真実を伝えるために世に来られた。私たちはそのイエスの言葉を、真摯に受けとめているだろうか。自分の耳と心に心地よく響く、自分にとって都合の良い耳障りのいい言葉だけを聞こうとはしていないだろうか。