『生まれる前から神さまに』

2023年12月24日(日) クリスマス礼拝
ルカによる福音書1:39-45

今日の礼拝で、高校3年生二人の受洗・信仰告白が行われた。また転入会された方も18歳の時に受洗された。17・18歳の決断を導かれた神さまに感謝をささげたい。

洗礼準備会では「あなたがたが決断する以前から神さまの導きが与えられていたことを信じ、そのことに身を委ねましょう」と語ってきた。「決意を抱く前から与えられていた導き」 ― どこにもその証拠はない。「そういうものだ」と信じる、それが信仰というものだ。

実は、この「決意する前から導かれていた」という考え方が、私は子どものころからニガ手だった。指図されるのを嫌い、「そんなんやったら、自分の意志なんてないやん。まるであやつり人形やん!」と反発する「牧師の子ども」であった。♪「生まれる前から神さまに/守られてきた友だちの…」と歌われるCSの誕生祝の歌も、どこか苦い記憶と共に歌ってきた。

しかし私と同じ境遇に生まれ、やはり牧師となったある人が、対談の中で言われた言葉に深く共感した。

「押し付けられたものはイヤだった。でもその中で得たものは、よかった」。

まさにその通り!をヒサを打った。

聖書に記されたイエス・キリストの言葉や生きざま、そしてイエスを信じた人々の残した文書、それは時に私を慰め、励まし、問いかけ、そして背中を押してくれるものだった。その聖書の言葉との出会いは、自分で選び取ったものではなく、生まれながらにして「押し付けられた」ものだった。しかしその中に恵みを感じる…、そんな風に考えるようになった。そのこと自体が、神さまの導きであった…ということなのだろうと思う。

私たちは普段、「自分で判断して生きている」と思っている。しかし私たちの意志はそんなに明確でなく弱いものだ。そんな私たちをそれでも導き、励まし、行く先を示してくれる神の導きがあることを信じたい。

幼な子イエスを宿したマリアに、エリサベトは言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」。“生まれる前から神さまの”祝福があったとエリサベトは語るのだ。

ではその祝福された幼な子の、その後の人生とはどんなものだったか。裕福で快適で楽しい人生…ではなかった。♪「貧しい馬小屋から、苦しみの十字架へ」(讃257・3節)そんな生き方であった。世の人には「不幸だ」としか見えない出来事の中に、神の祝福があることを聖書は語る。

ひょっとしたらイエス自身も、自分に「生まれる前から」定められた運命に、悩んだこともあったかも知れない。しかしそれでも投げ出さずにその道を歩まれた。そのイエスを、神さまは決して見捨てず、復活の命へと導かれた。

そのイエスのお誕生を祝うクリスマス。「生まれる前から神さまに」与えられた祝福があった…そのことを信じよう。