『聞く力』 川上 盾 牧師

2024年1月14日(日)
サムエル上3:1-10、ヨハネ1:35-42

「聞く力」を標榜して就任した現首相。新年早々の能登震災に関する記者会見で、こんな一コマがあった。原発関連の質問を遮り、「時間ですから…」と退出しようとした首相に向かい、記者は叫んだ。「聞く力はどこに行ったんですか!?」。それは首相本人だけでなく、震災を他人事としてとらえているすべての人への告発のように感じた。

「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)とパウロは語る。あれだけ大量の手紙を記し、福音のメッセージを発信し続けた彼がそう語るのである。

「信仰は聞くこと」、そのことを鮮やかに示すのが、今日の旧約の箇所・預言者サムエルの幼少期の物語である。祭司エリの元で仕えていたサムエルは、就寝中自分を呼ぶ声を聞いた。エリから呼ばれたと思い訪ねると、「それは私ではない」。

何度も同じことがあって、エリは悟った。「神さまが呼んでおられるのだ」。サムエルに助言する。「次に呼ばれたらこう言いなさい。『しもべは聞きます。主よ、お話下さい』と。」

サムエルは神の声を聞いた。しかし、最初はそれとは分からなかった。「神の声を聞く」とはそういう体験ではないか。すぐにその時に分かるのではなく、あとで気付く形でしか与えられない…それでも自分に向けられたかすかな声を聞こうとする、そんな「聞く力」が大切だ。

新約はヨハネ福音書、最初の弟子となるペトロとアンデレがイエスに従う場面だ。アンデレは、元はバプテスマのヨハネの弟子であった。ある日ヨハネと一緒にイエスと出会い、ヨハネが「見よ、神の小羊」と言った。その言葉を聞いてアンデレはイエスに従い、ペトロも誘ってイエスの弟子となる。

二人がイエスと出会い、話を聞いて、何か深く感銘する体験をして弟子になった…というのではない。何だか分からないまま弟子になったという、何とも奇妙な弟子入り風景だ。しかし、まことの弟子入りとは、そういうことではないか。

弟子の方が師を選び、評価し、納得して従う…そういうものだと私たちは思っているが、それでは結局、弟子の方が師を品定めしていることになるのではないか。弟子には師のことが本当は分からない。でも「ここには何か大いなることがある」との直観によって従う…そういうものではないだろうか。

「神の言葉を聞く」ということでも同じことが言える。「私は神の声を聞き、理解し、納得した。だから受け入れよう」…それでは結局、自分の声を聞いたに過ぎないのではないか。自分を中心に置くのではなく、「しもべは聞きます。主よ、お話下さい」とへりくだる者に、神の声は聞こえてくる。しかも、すぐには「それ」と分からない形で。そんな声を「聞く力」を大切にしよう。