2024年3月3日(日)
ヨシュア24:14-24, ヨハネ6:60-71
キリスト教、そしてその前身であるユダヤ教は、偶像崇拝を禁止した。それはただ単に「形あるものを拝む行為」を禁じたというのではなく、「この像を拝んでおけばご利益がある、願いや欲望が叶えられる」という信仰のあり方を戒めたということだ。
ご利益どころか、イエスは「私に従いたい者は十字架を背負いなさい」と教えられた。これは万人受けする教えではない。けれどもこの教えに従って歩むところに、他では得難い人生の意味を知る. . .それがキリスト教信仰だ。そこには「ひとひねり」が必要なのだ。「信じればいいこと(ご利益)がある」. . .そんな心を持っている人にとって、聖書の教える信仰の厳しさは、そこから離れたくなる心理を生み出すこともあるだろう。
ヨシュアはヨルダン川を渡ってカナンまでイスラエルを導き、そこで寿命を終えるにあたって人々に遺言を語る。「川向うの神々に従うのを避け、主=ヤハウェの神に従いなさい」。ところがその直後にこうも言う。「もし主に仕えたくなければ、川向うの神々に従うがよい」。すると民は答えた。「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、するはずがありません」。
立派な答えだ。しかしどこか嘘くさい。ヨシュアはその嘘くささを見抜き、「あなたがたは主に仕えることができないだろう」と言った。そしてその言葉通り、この後歴史の中でイスラエルの民は何度も主を離れるのだ。
新約では、イエスに従ってきた人たちのうち、一部がイエスの教えに対して「これは実にひどい言葉だ」と言って、イエスの元から離れたことを記している。彼らが「ひどい話だ」と言ったのは、イエスが「私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠に生きる」と言われたことである。私たちはこれが聖餐式のことを表しているとわかるが、彼らは文字通り受けとめた。「人肉を食べ、生血を飲む新興宗教集団」が身近にあったら、誰でも「ひどい話だ」という反応を示すのではないだろうか。
もうひとり、イエスの元を離れた人が描かれる。イスカリオテのユダである。イエスはユダの裏切りを預言し、「人の子を裏切る者は悪魔だ」と言われた。マルコでは「生まれない方がよかった」とも言われた。ショッキングな言葉だが、それは恨みの言葉ではなく、その後のユダの姿(裏切った罪に苛まれる)を配慮する上での言葉と受けとめたい。
しかしその後イエスが行われた洗足の出来事で、ユダもその場から排除されていない。主から離れた(離れようとした)ユダのことを、それでもイエスは排除せず、受けとめ、そして赦しておられるのだ。イスラエルに対するヤハウェの関りもそうである。何度も裏切る民に怒りを抱きながら、それでも関わり続けられる「熱情の神(原意は『嫉妬する神』)」なのである。「神さまが嫉妬する」. . .それはそれだけ、イスラエルに対する神の愛が強くて深いことを表しているとも言える。愛のないところには、嫉妬もないからだ。
「主を離れる人々」の姿を見て私たちは、「とんでもない奴らだ!」と思うだろうか?しかしそれは誰もがみな持っている心なのではないだろうか。そんな私たちのことを、神・イエスは見放さず、再び主の元に帰ってくる日を待っていて下さる。イエスはそんな神の愛と慈しみを示された。そして最後はユダの裏切りを受けて、十字架への道を歩まれたのだ。