2024年4月14日(日)
ヨハネ21:15-19
昨年のイースター、礼拝後みんなで鶏めし弁当を持って嶺公園にピクニックに行った。みんながシートに座ってにこやかにお弁当を食べている姿を見て「これだよなー!教会にとってこれが大事なんだよなー!」という感慨に浸っていた。この大事な交わりを、コロナの3年間はあきらめざるを得なかったのだ。
共に食事をする. . .それは教会にとって単に栄養補給や空腹を満たす以上の、とても大切な営みだと思っている。それは神の国の宣教や病人の癒しに並ぶ、イエスの宣教の柱であったからだ。
共に食事をすることは、共にいのちを分かち合うこと. . .だからイエスは共に食事をすることを大切にされた。聖書にはその姿がいくつも記される。五千人の共食、罪人たちとの食事、貧しい人だけでなく金持ちとも一緒に食事をされた(ザアカイ)。たとえ話にも宴会の譬えがいくつもある。
イエスの囲まれた食卓の特色、それは誰も排除されない交わりだ。異邦人、徴税人や遊女、病気や身体の不自由な人、そんな人たちを食卓の交わりから排除していた時代の中で、イエスは隔ての中垣を乗り越えてあらゆる人々と食事を共にされた。
律法学者・ファリサイ派の人たちはそれを見て「無秩序だ。汚らわしい!」と非難した。しかしイエスを信じて従った人々には「神の国の前触れ」との印象を与えたことだろう。そんな弟子たちによって始められた初代教会は、「食膳共同体」であったと指摘する神学者もいる。聖餐式の原型は、初期の礼拝の中で持たれていた共同の食事、すなわち愛餐会だったというのである。
よみがえりのイエスを伝える記事の中にも、共に食事をするイエスの姿がいくつも描かれる。今日の箇所もその一つ。失意の思いを抱きつつ、ペトロは言う。「わたしは漁に行く」。彼にとってそれは、自分の生業、すなわち日常に戻る決意の宣言だ。
すると岸辺にイエスが現れ、「何か食べるものがあるか?」と声をかけられた。最初その人がイエスだと気づかなかった彼らが「ありません」と答えると、「舟の右側に網を降ろしてみなさい」。言われた通りにするとたくさんの魚が獲れた。そして彼らは岸に上がり、誰かが熾してくれていた炭火で魚を焼いて、朝の食事をした。
「弟子たちはだれも『あなたはどなたですか?』とは尋ねなかった。主であることを知っていたからである」と記される。「さぁ、一緒に食事をしよう」. . .そのように招かれる姿、そこによみがえりのイエスがおられることを感じたからである。
人と人とが出会い、苦難や喜びを共にし、パンを裂き共に食卓を囲む. . .そのようにして共にいのちを分かち合い、共に生きようとするところに、よみがえりのイエスも共にいて下さるのである。
コロナ感染は、共に食事をする営みを遠ざけ、私たちの心を臆病にした。けれども共に食す営みをあきらめないようにしたい。臆病な心を乗り越えて、共に食事をすることを大切にされたイエスに従おう。