『神ともにいまして』 川上牧師

2024年5月5日(日)
出エジプト33:7-11,ヨハネ7:32-39

イエスの十字架は、歴史的事件として見れば権力者による不都合の事実の抹殺である。その目論見は一端成功したかに見えた。しかしイエスに出会い、その教えと生きざまに救いを感じた人の記憶までをも消すことはできなかった。イエスは語り継がれ、信じる人々の心に何度もよみがえった。イエスのいのちは「終わっていない」のである。

今日の新約の箇所でイエスは語られる。ご自身が苦難に会うように、弟子たちにも苦難の道が待ち受けている。その道のりは悲しみに満ちているが、それはやがて喜びに変えられる、と。その喜びの根拠として示されているのが「弁護者」、すなわち聖霊の導きである。

「あなたがたにはこの世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている(33節)」。グッとくるイエスの言葉だ。この世の力を持つ者の横暴によって苦しみが待ち受けていても、イエスは恐れない。「世に勝っている」からだ。「私は一人ではない。「父が共にいて下さる(32節)」という言葉にその確信の根拠が示されている。「神ともにいまして」、それが世に勝つ信仰の源泉だ。

「神ともにいまして」とは、神さまが何でも守り敵を退けてくれる. . .ということではないかもしれない。自分の願いとは違う悩みの中を歩まねばならないこともあるかも知れない。けれどもそれがいきなり絶望の果てになるのではなく、「大丈夫、まだ望みがある」と道を開き導いてくれる. . .それが「神ともにいまして」という信仰である。

自分の見えるもの、確かめられるものだけがすべて. . .そのような考え方の下では、イエスの十字架は敗北であり絶望である。しかしそう思った瞬間に私たちは「世に負けてしまう」のだ。目の前にある現実を越えた、見えないけど世を動かす力(想像力・連想力)に導かれる時、私たちは世に負けることなく前に進むことができる。

ところで、「神ともにいまして」を信じる信仰には、もう一つの側面がある。それは私たちにとって都合の良い心地いい経験ばかりとは限らない、ということだ。私たちは過ちを犯し道を踏み外しそうになる時、その罪を指摘し過ちを糾すのもまた「神ともにいまして」という信仰だ。

出エジプトの民を導いたのは「雲の柱・地の柱」であったと記される。それは苦難から自由に向かう民にとって心強い神の導きであった。けれどもそれだけでなく、「金の小牛」事件のように、人々が自己中心的な思いの中で道を踏み外す時にもまた、雲の柱の導きが示される。

私たちが進みゆく道に対して、不安や恐れを抱く時にはそれに打ち勝つ勇気と希望を与え、私たちがおのれの力を過信し罪を犯しそうになる時には戒めと気付きを与えてくれる. . .それがイエスの示された「神ともにいまして」という信仰なのである。