『使徒となる道』 川上牧師

2024年5月12日(日)
列王記下2:8-15, ヨハネ7:32-39

5月9日は「昇天日」。十字架の死からよみがえったイエスが天に昇り、再び弟子たちが取り残される日、イースターから40日後の出来事である。

ルカ福音書には「弟子たちは大喜びでエルサレムに帰り…」と記される。「ほんとかな?」と思う。頼りになるイエスが再びいなくなってしまった…そのことを喜べるだろうか?

姉と一緒に出かけたお祭り。姉についていけば安心だった。ところが迷子になり、不安と恐怖の中に落とされる。しばらくして姉が現れた。心配して探しに来てくれたのだ。ホッとしたのもつかの間、姉は家への帰り方を教えると、「あとは一人で帰ってきなさいね。じゃ!」と放り出されてしまい、妹は再び不安と恐れの中に取り残されてしまった…。弟子たちが置かれたのはきっとそんな状況だ。

もうひとつの昇天日の伝承・使徒言行録1章では呆然と空を見上げる弟子たちの姿が描かれる。こちらの方が実際の弟子たちの心象に近いように思う。弟子たちは押し寄せる不安の中、ただ空を見上げるしかなかったのではないか。

しかしそれは弟子たちが、やがて御言葉を宣べ伝える伝道者となっていくためには、通らざるを得ないプロセスだったと思う。昇天日は不安から成長に向けての第一歩である。それは未熟な「弟子」から、教会の指導者たる「使徒」となる道である。

エリヤの昇天の場面で、弟子のエリシャは「私はあなたを離れません」とエリヤにしがみつく。「私が天に上げられる前に、願いがあるなら言ってみよ」とエリヤから言われると「あなたの霊の二つ分を得させてください」と困難なことを願い出る。するとエリヤは「私が天に上げられるのをしかと見よ。そうすれば願いのものは与えられるだろう」と言った。

やがてあなたは「師の不在」を経験する。そのことを受け入れよ、そうすれば新たな歩みが備えられる…そうエリヤは語るのである。この言葉を受け、やがてエリシャはエリヤの後継者としてその働きを引き継いてゆくのである。

「私が去っていくのはあなたがたのためになる。私が去らなければ弁護者(聖霊の導き)はあなたがたのところに来ないからである」(ヨハネ16:7)とイエスは言われる。イエスが実際に一緒にいる限り、弁護者は与えられない。イエスに丸投げ、頼りっ放しになるからだ。

イエスと一緒の方が弟子たちにとっては心強い安心な道のりだったことだろう。しかしその状態では彼らは未熟な「弟子」のまま。独りでは歩けない、迷子になったらべそをかくしかない、自立していない存在だ。

けれども頼りにあるイエスから離れて、未熟でも不安があっても自分の足で歩き始める…その歩みを通して、彼らは「使徒」となってゆくのである。「からっぽ」な弟子たち ― その空の心に神の不思議な風が注がれる。