『主イエスの名によって』 川上牧師

2024年5月26日(日)
イザヤ40:12-17, ヨハネ14:1-14

お祈りの最後に「この祈りを、主イエス・キリストのみ名によって祈ります」としめくくる。なぜそう祈るのか、その根拠が今日の新約ヨハネ14:13-14の言葉である。「わたしの名によって何かを願うならば、何でもかなえてあげよう」とイエスは言われる。この言葉に基づいて、私たちは主イエスの名によって祈るのである。

初詣の祈りと教会での祈りとの間に、何か違いはあるだろうか?願いごとを祈るという意味では大差はない。ただひとつ違いがある。それは教会の祈りは「主イエスの名によって祈られる」ということである。

キリスト教、その母体のユダヤ教が、厳しく戒めてきた祈りのスタイルがある。それが「偶像崇拝」である。偶像崇拝の禁止とは、ただ単に「刻んだ像を神としてあがめる」という行為を禁じたものではない。問題はその祈る動機である。

「この像を拝んでさえおけば、自分の欲望(強欲)がかなえられる」. . .そんな風に人間の目的に都合よく応えてくれる神を求める祈り、それが偶像崇拝なのである。神と人間との順序が逆になっているこの祈りを、キリスト教では厳しく戒めてきた。

では、キリスト教では自分の願望を祈ってはいけないのだろうか。そんなことはない。私たちのささげる祈りの大半は、様々な願望であろう(病気の回復、作物の成長、事業や受験の達成、被災地や紛争地を覚える祈り)。私たちは様々な願望を祈り、祈る以上はその願いがかなうことを望み見て祈る。それはあたり前の姿である。

ただし、祈りをささげたその結果、残念ながらかなえられないこともある。その時どう受けとめるか。それが大切なのである。私たちは自分の願望を切に祈るが、それを実現に至らせるのは神であって、人間ではない。そう思って最後はすべてを神に委ねることが肝要だ。

イエス自身がそのような祈りの手本を示された。それがゲッセマネの祈りである。「この杯(十字架)を取り除いて下さい」とイエスは祈る。血の汗流して、切に祈る。しかし最後は「私の思いではなく、みこころのままに」とすべてを神に委ねられるのである。

もうひとつ、「主イエスの名によって」祈ることの大切な意味合いを考えたい。主イエスの名によって祈るということは、イエスが仲保者になって下さる、ということだ。その時私たちの中に「この祈りは、主イエスの名によって祈るのにふさわしい祈りだろうか?」という吟味の思いが浮かぶのではないか、ということだ。

学校や会社に入るに際して推薦状を書いてもらうことがある。その時「推薦状があるからもう大丈夫!」と、何の自省も努力もなく推薦状だけに依存するような態度は、推薦者の顔に泥を塗ることになる。「この祈りはイエスさまの顔に泥を塗らないだろうか?」との思いを抱くことが大切だと思うのだ。

「祈りがかなえられる」とは何でも自分の思い通りになることではない。神さまは祈りに必ず応えて下さる。ただし、それは今自分が願っていることとは違うかも知れない. . .そんな受けとめ方を大切にし、これからも主イエスの名によって祈りをささげてゆこう。