『「聖なる場所」ではなくても』  川上牧師

2024年6月16日(日)
ミカ4:1-7、ヨハネ4:21-24

様々な宗教には聖地と呼ばれる場所がある。宗教に限らず「聖地」と呼ばれる場所(甲子園球場、普門館ホール、アニメの聖地等々)には、そこに関係を持つ人々の物語がしみ込んでいる。だから聖地はそこに人を向かわせ、人の思いを惹き寄せるのである。人は聖地を求めるのである。

聖書の中ではエルサレムが聖地である。その昔、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民が、ヤハウェの神から賜った約束の地・カナン、その中心がエルサレムである。「約束の地」に関して、現在のイスラエル政府の軍事的行動は決して正当化されないと思う。しかしエルサレムが大切な場所とされた聖書の記述があるのも事実である。

預言者ミカは、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされた時代に、南王国で活動した。敵国の脅威が迫る中でミカは「主の教えはシオンから、み言葉はエルサレムから出る」と語る。そこにはイスラエルの民を導いて来られた神に対する絶対の信頼がある。

ミカは決して能天気にエルサレムの保護を語ったのではない。直前の箇所(3章)には、エルサレムの指導者への辛辣な非難の言葉が語られる。しかしそれでも一方では、エルサレムへの祝福は続くとの確信が語られるのだ。それほどイスラエル・ユダヤの人々にとって、エルサレムは聖なる場所であり、自分たちの「救いの物語」がしみ込んだ場所だったのである。

そのエルサレムに対して、イエスがある意味冷淡でつれないことを言われたように見えるのが今日の新約の箇所だ。イエスとサマリアの女との対話である。ユダヤvsサマリアの複雑な状況…それを打ち破ったのは、イエスの「水を飲ませて下さい」というひと言であった。

二人の間に深いやりとりがあった後、彼女はイエスに言う。「あなたは預言者とお見受けします」。ここにはイエスに対する彼女の敬意が感じられる。しかし続けて「私たちはこの山(ゲリジム山=サマリアの聖地)で礼拝し、あなたがたはエルサレムで礼拝すると言っています」と語る。ユダヤvsサマリアの複雑な関係の中で、「あなたとわたしたちは違うんでしょ!?」と、少し突き放すような言葉である。

するとイエスは言われた。「この山でも、エルサレムでもないところで、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」。特定の「聖地」と呼ばれる場所にいることが大切なのではなく、神の霊と真理に導かれることが大切だ、と言われるのだ。

イエスは聖地を軽んじられるのか?そうではなく、イエスにとってもエルサレムは大切な場所であった。だから最後のエルサレムに向かわれたのだ。しかしそれは単なる憧れの巡礼ではなく、エルサレムを本来の姿から離れさせてしまった宗教指導者に対して、ある種の「たたかい」を挑むためであった。

ある場所、ある事柄を特別視して崇めることは、一歩間違うと権威主義や執着を生み出す。聖書の律法学者・ファリサイ派の姿がまさにそうである。イエスはその過ちを指摘し、場所や権威から自由な形で導かれる信仰のあり方を示された。神の霊と真理が宿るところならば、どんな場所であってもそこが「聖地」であり、祝福を受けられる場所となるのだ。

コロナを契機に、礼拝堂の礼拝に集えない人がおられる。しかしオンラインで同じ礼拝に連なる道が開かれた。これは感謝すべきことである。特定の場所から離れていても、わたしたちはいつでもどこでも神に祈り、神に祈ることができる。そしてそこで祝福を受けることができるのだ。