『 とにかく、とにかく癒しを! 』 川上牧師

2024年6月30日(日)
ホセア14:2-8, ヨハネ4:43-54

聖書には実に多くの「癒しの物語」が記される。ホセアの語る「わたしは背く彼らを癒し、喜んで彼らを愛する。」との言葉は、ヤハウェを離れバアルを拝するイスラエルの人々の罪を、神が赦されることを表す。ここでは「罪の赦し」と「癒し」が密接に結びついている。

新約聖書におけるイエスの癒しは、文字通り病気や身体の不具合からの癒しである。しかしイエスはしばしば「あなたの罪は赦された」と語られた。病気や身体の不具合は本人か家族の罪(ヨハネ9章・生まれつき盲人の癒し)と考えられていた。そのような心情に囚われてしまっている人に向けてイエスは罪の赦しを宣告し、その人を癒された。

実際に病気が治ったことをどう受けとめればよいか。イエスは病気治癒を可能にする超能力を持っていたのか?癒しの場面でイエスがしばしば語られた言葉が参考になる。「あなたの信仰があなたを救った」. . . イエスはそう言われたのだ。

病気から回復する、その回復を生み出すものは何か?医者の関わり、適切な服薬、病巣・患部への処置. . . それらも確かに必要だが、何よりも根本にあるのはその人自身の「身体の回復力」である。そしてその回復力は心=精神と深く結びついている。信頼する人に祈ってもらったことで、回復力が高まることがあるのだ。

イエスの元に集まった人々。「この人なら病気を癒して下さるに違いない」そう信じる心が、身体の回復力を高め、癒しへと導いていったのだろう。イエスは霊力で人を癒す超能力者だったわけではない。その人の「治る力」を引き出す、そんな関わりのできる達人だったのだと思う。

新約もひとつの癒しの物語だ。ガリラヤのカナでの出来事。カファルナウムに住む王の役人がイエスを訪ね、病気で死にかけていた息子の癒しを願い出た。ところが、最初イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」と、大変つれない対応をされる。「カナの婚礼での奇跡」(ヨハネ2章)にも関わらず、イエスを認めないガリラヤの人々の不信仰を批判されたのかも知れない。

しかし父親は「とにかく、とにかく癒しを!」と必死の思いでイエスにすがる。するとイエスは「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われ、帰ってみると息子の病気は治っていた。イエスは息子に会っていない。身体に触れてもいない。しかし病気は治った。何が起こったのか?やはりイエスには超能力があったのか?

息子もイエスのことは知らない。しかし父親の姿はよく分かっている。自分の病気が癒されるように「とにかく、とにかく癒しを!」と願い出てくれた. . . その姿が彼の心の中で希望となり、癒しを導く身体の回復力を生み出していったのではないか。

「自分のために祈ってくれる人がいる」. . . その信頼が癒しを導くことがある。いま、私たちの仲間にも病気や手術からの回復を願う人がいる。「とにかく、とにかく癒しを!」そう願って祈り続けたい。