『 裁く神、赦す神 』 川上牧師

2024年7月7日(日)
ミカ7:14-20, ヨハネ5:19-30

旧約聖書の描く神の姿は、とかく裁きのイメージが強い。しかしそれは神さまが最初から厳しいお方だったのではなく、人間の「原罪」があったからだ…というのが聖書の理解である。

私は子どものころ、人をすぐに「罪人扱い」するキリスト教の人間理解が苦手であった。しかし成長するにつれて、自分の中にも悪しき思いが溢れるほどあることに気付き、聖書の人間理解の深さを思うようになった。

神さまは人間が憎いから裁かれるのではない。むしろ愛して、誰よりも大切に思っているからこそ、厳しく向き合われるのではないか…。旧約の神が裁きのイメージが強いのだとしたら、それだけ人間が神の愛を裏切ってきかたらではないか。

そんな中で、ミカ書は神の裁きではなく、赦しを語る。「あなたのような神が他にあろうか。咎を除き、罪を赦される神が」(7:18)という言葉は、やがて新約の中心的なメッセージである「罪の赦し」に結びつく、金字塔としての言葉である。

一方の新約の箇所は、イエスと対立する人々(ユダヤ人の律法学者たち)とのやりとりである。対立する人々に向けて、イエスはいきなり「呪われよ!」とは語られない。むしろ「父は誰をも裁かれない」と語る。「裁きは子に任せておられる」「わたしの裁きは正しい」― これらの言葉は、神の子・イエスにこそ裁く権限がある、ということだろうか。

「新約の描く神は裁きの神ではなく、赦しの神である」…しばしば語られるこの言説の根拠は、ヨハネ3:16-18の言葉であろう。「神は独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。この究極の真理を私たちは信じたい。神の裁きを語る教会ではなく、神の救い・赦しを語る教会でありたいと願う。しかし、聖書には厳しい神の姿が記されているのも事実だ。これをどう受けとめればよいのだろうか。

いま私は「神の赦しを語る教会でありたい」と申し上げた。その思いは真実であるが、ここにはひとつの弱点があると思っている。それは、人間の邪悪さを見過ごしにしてしまい兼ねないということである。赦しを最優先の前提にしてしまうと、人間はそれに甘え、同じ過ちを繰り返してしまう. . .大変残念なことであるが、それが人間のもう一方での現実だと思うのだ。赦しの恵みが本当の救いになるためには、一方ではある種の厳しさが必要なのではないか。

「姦通の女の赦し」(ヨハネ8章)で、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい、もう罪を犯さないように。」この二つの言葉にはさまれることによって、人はやが「自律」を学び成長へと導かれてゆくのではないか。

2年前、みんなで定めた『前橋教会信仰告白』にこんな言葉がある。「神は私たちをいつも見つめ、豊かに愛を注ぎ、厳しく問いかけられる方です」。「裁く神」「赦す神」聖書はその両面を記している。そんな神さまに導かれて、自律と成長への道を進もう。