2015年5月10日(日)
ダニエル6:14-23 , 第2テサロニケ3:1-5
今日は母の日。「母親に感謝をささげる日」ということで、日本にもずい分定着した。実際の母と子の関わりは、愛に満ち溢れた麗しいものばかりとは限らないだろう。しかし、母がいたからこそ今の自分の命があるのであり、また人生の始めの一時期、母(または父、または親代わりの人)によって守られていたから生きてこられたのは事実である。人間は一人で放っておかれると死んでしまう未熟な状態で乳児期を過ごす生き物だからである。
釈徹宗さん(僧侶)の近著で印象的なエピソードを読んだ。母一人子一人で育てられたひとり息子。就職の年頃となり1次面接に臨むと、面接官から「キミはお母さんの身体を洗ったことがあるか?」と聞かれた。「ありません」と答えると、「じゃ、2次までの間に洗って来て下さい」。息子はさすがに一緒に風呂には入れないと思い、足を洗うことにした。仕事から帰ってきた母の足を洗うと、皮膚が石のように固くなり変形もしている。息子はボロボロ涙を流しながら足を洗った。やがて迎えた2次面接。「おぉ、キミか。お母さんの身体洗ったか?」「はい、足を洗わせてもらいました。」「どうだった?」「とても大切なことを教えていただきました。僕は今、この会社に就職できなくてもいいと思っています。もっと大事なものがあるということがわかりましたから」。母の足を洗いながら、自分が母に守られてきた日々を想い起す。そんな「気付き」の大切さを教えてくれる佳話である。
「私たちは皆、神さまに守られている。神さまがいつも守って下さる。」それが私たちの信仰の原点である。それは「日々の暮らしの平穏な日常を守って下さる」ということだけではなく、苦難の時・試練の時にも、いやそんな時こそ神のお守りがある。そう信じる信仰もあるだろう。
今日の箇所・ダニエル書はまさにそのような物語だ。バビロン捕囚のさ中、異邦人支配の世の中で、ヤーウェの神をあおぎ他の神々や王にも膝を屈しなかったダニエル。そのために策略によってライオンのほら穴に放り込まれる。しかし神さまが守って下さったことによって、獅子の餌食になることはなかった…。これは現実の苦難の中をそれでも信仰を捨てずに歩む者たちへの、激励の物語なのである。
しかしもう一方には「神さまがいつも守って下さるとは限らない。」そんな現実があるのも事実である。バビロン捕囚の時代も、ローマ帝国の迫害の時代も、江戸幕府のキリシタン禁令の時代も、信仰を固く守ったが故に命を奪われた人がたくさんいる。自然災害においては、数メートル、数cmが生死の分かれ目になったケースもある。そんな現実の前で「神さまがいつも守って下さる」という信仰は激しく揺さぶられる。そこで「そのような自分を守ってくれない神さまなら、信じることをやめる」と言ったら、それで「おわり」である。
第2次大戦直後の欧州のユダヤ人は、「なぜ神は我々を守られなかったのか」という切実な問いの前に立たされた。実際に信仰を捨てた人もいた。そんな時、レヴィナスというユダヤ人の哲学者がこんな論を展開した。
「神がその名にふさわしい遺徳を備えた方ならば、『神が不在と思える危機の時に、それでも(神の支援抜きに)正義を行なうもの』として人間を作られたはずだ。ナチスの不正義は人間の仕業である。その不義を正して正義を行なうのは神の仕事ではなく、人間の仕事である。この世の不幸・不正義を神の責任にする人の信仰は未熟な信仰である。我々は信仰的に成熟しなければならない。」と。
「神さまは時々守ってくれないこともある。それでも我々はその神を信じ、神の望まれる世界を作らなければならない。」レヴィナスはそう言った。なぜそう言い切れたのか?それは逆説的ではあるが、「かつて守られた体験」をありありとイメージできたからではないだろうか。「かつて守られた体験」、それは個人の体験でなくてもよい。もっと集団的な、時空を超えたイメージの中でその経験を語り継いできたのがユダヤ人の歴史なのだろうと思う。
それは私たちの「母に守られた」という思いに通じるものがあるのかも知れない。今現在、母がいつも、いつまでも守ってくれるわけではない。しかしかつて母に守られた、その思いがあるからこそ、それが「今を生きる力」になるということだ。母の足を洗いながら大切なものに気付き、今を生きる意味を見出した息子のように。
そしてそれは、「師の不在」の中を、それでも歩んでいったイエスの弟子たちの姿にも重なるものなのである。