2024年7月21日(日)
列王記上17:8-16, ヨハネ6:22-27
「朽ちる食べ物のためにではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」とイエスは言われる。いつまでもなくならない食べ物. . .そんなものがあるのだろうか?
本日の旧約・列王記は、神のために闘うエリヤを養った、ひとりのやもめの物語である。エリヤにパンを差し上げるために最後の粉と油を使ってパンを焼いたが、粉と油は無くならなかった。「神さまはエリヤとやもめを守られた」というストーリーだ。イエスの語る「いつまでもなくならない食べ物」とはそういうものなのだろうか?
私たちは「生きる」ということをしばしば「食う」と表現する。(「食っていくために働く」「家族5人を食わせねばならない」等) 生きるには食物(パン)が必要だ。そのパンを得るために働くこと. . .それは正しく必要なことだ。ただし、そこには気をつけないと陥ってしまうピットフォール(落とし穴)がある。
「生きるために働く」とは、本来、生きることの豊かさや喜びを得るために働くことである。ところが気をつけないとそれは、「働くために生きている」という状況を生み出しやすい。過酷な労働を強いられ、生きる喜びが見失われているにもかかわらず、パン(金)を得るために「働かねばならない」と、パンを得ることにあくせくしてしまうのである。マルクスの言う「労働による疎外」という状態である。そんな逆転した人々の状況に向けて語られたのが、あのイエスの言葉なのだ。
「いつまでもなくならない食べ物、そんなものがあるなら、私にもください」と願う弟子たちに、イエスは言われた。「私が命のパンである」(ヨハネ6:35)。イエスの教えとその生涯こそ、いつまでもなくならない「朽ちないパン、命の糧」なのである。
このパンは、私たちの空腹を満たしてはくれない。空腹は口から食べる食べ物で満たさねばならない。しかしその命の糧によって、私たちの心は満たされる。生きる喜びを取り戻してくれるのである。そしてそのイエスの言葉・教えは、いつまでもなくなることはない。
「心が満たされても、空腹が満たされねば意味ないじゃないか!」との反論があるかも知れない。しかし空腹を満たすために人生を空しくしてしまっては元も子もない。イエスは決して食べることを軽んじられたのではない。むしろ共に食卓を囲むことを大切にされた。食べ物を得るために働くことを否定されたのではない。
イエスならきっとこう言われるだろう。「働けるものは働きなさい。そうやって食べ物を手に入れなさい」。その上でこう言われるのではないか。「その手に入れた食べ物を、強者・富者が独り占めするのではなく、分かち合いなさい」と。
イエスの教えを伝えても、世界の諸問題が直接解決することはないかも知れない。しかし「その問題を何とかしよう」と志す人を生み出す、そんな「命の糧」なのである。