『 まことの知恵は神にあり 』 川上牧師

2024年8月11日(日)
ヨブ記28:12-28、 Ⅰコリント3:1-9

群馬地区の平和集会講師のダニー・ネフセタイさんが、講演の中でクイズを出された。「夫婦ゲンカと戦争に共通することは何?」…答えは「まっ最中は永遠に続くと思うが、終わってみると何でやってたのか忘れる」。なるほどと思ったが、私は違う答えを考えていた。「どちらも『自分が正しい』『自分が正義だ』と思っている」、それが私の考えた答えだ。

「自分は間違っているかも知れない…」と思っている人同士の間で争いが起こることはない。夫婦の諍いから戦争に至るまで、当事者同士は「自分の方が正しい」と思って争っている。「自己絶対化」が生み出す争いである。

旧約はヨブ記。神の前に正しく歩む義人・ヨブが、サタンの策略により次々に不幸に遭う。当初はけなげに受けとめていたヨブであったが、ある瞬間から神を呪い始める。それはヨブの3人の友人が「お前のその不幸は、お前自身の罪・あやまちに対する神の裁き・罰だ」と説得を始めたことがきっかけであった。「それは納得できない!」とヨブは反論し、延々と神への抗議を続けるのである。

今日の箇所(28章)で、ヨブは小見出しにあるように「神の知恵を賛美」する。「なんだ、ちゃんと分かってるじゃないか」と思えるような言葉が次々に語られる。そう、ヨブは分かっているのだ。「まことの知恵は神にあり」ということを。しかし、「その神が、なぜこんな仕打ちをなさるのか!」それがヨブの怒りの源泉jとなるである。

「ヨブがそう思うのも、ムリもないよね…」私たちはついそう思ってしまう。しかしここにこそ、ヨブ記(聖書)が私たちにつきつける信仰の課題がある。その思いは気をつけないと「自分が正しい、自分が正義だ」という自己絶対化の誘惑に陥りやすい。「まことの知恵は自分の中からは出ない。それは外部から、すなわち神から来る」. . .それが聖書の示すメッセージなのだ。

コリントの教会では深刻な派閥争いがあった。パウロとアポロ、二人の指導者の語るそれぞれのメッセージに違いがあり、「私はパウロに」「私はアポロに」という対立が生じ、妬みや争いが絶えなかったという。

そんな教会の人々に向けてパウロは「私(パウロ)は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させて下さるのは神である」と語る。パウロもアポロのただの人間である、人間はまことの知恵は持っていない、それはただ神が持っておられるのだ!と。

私たちが「自分は正しい、あの人は間違ってる!」と思ってしまう時、あのヨブを惑わせたサタンの策略・自己絶対化の誘惑に、最も深く晒されている時なのかも知れない。その誘惑を克服し、「まことの知恵は神にあり」そう思って自分を相対化し、違いを認め合って共に生きなさい. . .それがパウロのメッセージだ。

間違えないようにしよう。それぞれが知恵を得ようとし、正しさを求めて生きることが「いけない」というのではない。それはむしろ大切なことだ。しかしそこで到達した自分にとっての正解が、隣人にとっての正解とは限らない. . .「自分も間違ってるのかも知れない、人間みんなボチボチや. . .」そんな気付きを大切にして、互いを認め合い共に生きようとする者でありたい。その気付きを与えてくれるキーワード、それが「まことの知恵は神にあり」という言葉だ。