2024年8月18日(日)
出エジプト34:4-9、ヨハネ8:1-11
旧約は出エジプト記の「十戒の再授与」の場面。モーセが十戒を授かるために山に登り不在となった時、人々は金の子牛の像を作り拝み始める。指導者不在の中、見えない神を信じることへの不安から、偶像を拝むという過ちを犯してしまったのだ。
モーセは怒り、十戒の刻まれた石板を叩き割り、首謀者を罰した。そして神への謝罪のために再び山に登ると、神は改めて十戒を与えられた。律法と基となる十戒。それが2回与えられたというところに意味があると思う。どんなに大切な戒めでもそれを破ってしまう人間だが、神は赦し、再び戒めを授けられる。
新約は「姦通の女の赦し」の物語。登場する律法学者たちは、十戒から派生した律法を守ることが何よりも大切だと説いていた。そんな律法学者とイエスは、しばしば対立する。今日の箇所では、姦通(不倫)の現場で捕まえられた女性を巡っての衝突があった。
律法の規定に従うならば、その女性は「石打ちの刑」の処されなければならない。皆で石を投げて苦しみを与え、見せしめとする残虐な刑罰だ。周りには今にも石を投げようと待ち構えている人々が彼女を取り囲んでいたことだろう。
この一件を告発した律法学者たちには別の目論見があった。「律法は石で打ち殺せと命じているが、あなたはどう思うのだ」とイエスに迫る。それは日ごろ対立してはやり込められているイエスを、窮地に立たせようとする策略である。
イエスが「そうすればいい」と答えれば、「あなたが普段説いている愛の教えはデタラメか」と難癖をつける。かといって「してはならない」と答えれば、「お前は律法に違反するのか!」と非難する。Yes, No, どちらに応えてもイエスに不利な状況が生まれるのだ。
イエスは最初「地面に何か書いておられた」と記される。そのような卑劣な問いを発する人たちにあきれて「相手にしたくない」という思いがあったのかも知れない。しかし彼らがしつこく問い続けるのでこう言われた。「あなたがたの中で罪を犯したことがない者が、まず石を投げなさい」。
すると人々は「年長者たちから始まって、次々にその場を立ち去った」とある。長く生きてきた人ほど、自分の歩みを客観的に振り返る心を持っていたのであろう。誰もいなくなると、イエスは彼女に言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい、これからはもう罪を犯さないように」。
イエスは罪を見過ごしにはされない。しかしそれを赦し、新たな歩みを示される。それはちょうど、1回目の十戒を与えられ、罪を犯して石板を割られても、その罪を赦してもう一度十戒を授けられた神の深い思いに通じるものである。
決まり事を守って生きることは大切だ。しかし「皆がそうしてるから」「決められているから」とただ表面的に守るのではなく、自分で考えて「どう生きるのが神の喜ばれることか」を目指すこと、それが一番大切であることをイエスは示される。