2024年9月1日(日)
ヨハネ8:31-36
「私の言葉にとどまるならばあなたたちは真理を得、真理はあなたたちを自由にする」。今日の箇所に記されたイエス・キリストの言葉である。自由、それはどの時代に生きる人にとっても永遠の憧れである。
しかしその自由の目指す内容は、時代・状況によって異なる。奴隷制時代のイスラエルやアメリカ黒人たちにとって、自由とは端的に身体拘束からの解放であった。江戸幕府・封建社会の息苦しさにあえいでいた新島七五三太(襄)にとって、それは学問や渡航の自由であった。
時は流れ、多くの国で封建制は退き、近代を迎える中で人々は様々な自由を得た(渡航・居住地・職業選択・学問)。しかしそれで人間は本当に自由になったかというと、事はそんなに簡単ではない。
1920年代のドイツ、当時最も民主的と言われたワイマール憲法下で市民的自由を手にした人々が行き着いた先は悪夢のような出来事だった。ナチス・ヒットラーのファシズムを、市民は熱狂的に支持していったのだ。
この一見矛盾した情勢を分析したのがE.フロムの「自由からの逃走」である。封建制の崩壊は確かに自由をもたらしたが、一方でコミュニティは雲散し、何でも「自己責任」という風潮の中で、人々は不安や孤独感を感じるようになった。
不安や孤独に耐えられなくなった人たちは強いリーダーを求め、権力と一体化する心理を生み出した。気が付いたら自由に発言・行動することができない社会を、みんなで作り上げてしまった、というのである。自由とは大変奥の深い、困難なテーマでもあるのだ。
イエスは「真理はあなたたちを自由にする」と言われる。これを聞いたユダヤ人たちは「我々は何ものにも縛られていない」と反論する。イエスとユダヤ人の自由に対する理解は違っている。どこが違うのだろうか。
ヒントがフロムの本に記されている。〈 自由には2種類ある。①「○○からの自由(消極的自由)」と、②「○○への自由(積極的自由)」。①だけだと人間は孤立化し、それが逆に全体主義を求める心理となる。②の追求こそが、孤立を乗り越え尊厳に満ちた個人を生み出す。その「積極的自由」の最たるもの、それが「愛」だ。〉
ユダヤ人たちの求めた自由は①の自由(エジプトやローマからの自由)、しかし彼らの行き着いた意識は律法主義という権威主義であった。イエスの示された自由、それは②の自由、「自分を愛するように隣人を愛せよ」という自由であった。
そのイエスの自由をパウロはこう記す。「あなたがたの自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13) 人と人とが愛によって互いに仕え合って生きる時こそ、人間が最も自由な姿である、と語るのである。
国禁を犯して出国した新島襄は、アメリカで学び牧師となり、開国日本に戻って教会と学校を建てる願いを抱いた。それをアメリカの教会の人々に訴え寄付金を募ったところ、多くの人々が寄付を寄せてくれた。その中にひとり、2ドルを寄付してくれた年老いた農夫がいた。他の寄付と比べれば大した額ではない。しかしそれは彼の帰りの汽車賃であり、自分は歩いて帰るというのである。遠い日本から来た青年の夢を支えるために、なけなしのお金を差し出し、自分は歩いて帰る農夫の姿。これこそが「真理がもたらす自由」なのだと思う。
現代は一見「自由な社会」であるように見える。しかし私たちは本当に何ものにもとらわれずに自由に生きているだろうか?欲望や敵意に囚われてしまってはいないだろうか?いつも何かに依存してしまってはいないだろうか?そんな問いかけを自らに向けながら、イエスの示された「愛の真理」に学び、本当の自由な姿で生きる者となろう。