2024年9月8日(日) 群馬区講壇交換
Ⅰ ペトロ1:1-2
私の出身の吉岡町は、朔太郎が「かの淋しき総社の村」と詠んだ現在の総社町よりも田舎町であった。大渡橋を渡って前橋に行くのが、「お街」に行くような感覚でとても楽しみであった。現在牧師をしている島村教会もまた、埼玉と県境を接する利根川南岸の田舎町である。
ペトロの手紙の冒頭に出てくる5つの宛先、その範囲は広く、今のトルコ全域に広がる。かつてパウロが宣教に行こうとして「イエスの霊がそれを許さなかった」(使徒言行録16:6)と記されるような、未開の地・辺境であった。しかしそんな地にもやがてキリストを信じる人たちが現れ、その人たちに向けて書かれたのがペトロの手紙である。
今から2000年前の古代世界における「辺境の地」。「宗教」などという体系化した営みは存在せず、悪霊とか狐憑きといった、魑魅魍魎が跋扈するような状況があったことだろう。そんな中で神の霊・キリストの教えに従って生きようとした人たちの思いとはどんなものだっただろうか。
初代教会時代のキリスト教は、「今までの慣習には従わない伝染性の強い新興宗教」のような扱いを受けていた。絶えず抑圧や肩身の狭い生き方をしていた人々。そんな人のことを「離散して仮住まいをしている人たち」と呼びかけている。
島村教会の歴史を紐解くと、やはり明治初期には教会員の地域での苦労が偲ばれる出来事がある。神社の祭りに参加したり、仏式の葬儀を手伝ったりと、何とかしてクリスチャンであっても地域の人に受け入れられようと苦労をしておられたようである。
ペトロの手紙はそんな人たちに向けて書かれた手紙だ。大都市の教会の人に向けて書かれたパウロの手紙とは、その点の視点や立ち位置が違うように思う。パウロは「終末が切迫している」との思いから効率の良い都市部の伝道に進んだ。これに対して、辺境に生きる信徒たちは、効率の悪い「茨の中にまかれた種」(イエスの譬え)のような存在であった。
しかしいかに辺境であろうとも、イエスの血潮によって清められるという信仰があり、茨の中でも種が芽を出し育つことを願ってこの手紙は書かれたのだ。このようなマインドは、日本での伝道に必要なものだ。
手紙には5つの宛先が記される。情報の少ない古代では、地域にどれだけのクリスチャンがいるかを知るのは困難であった。手紙を読んだ人はこの宛先を見て「あぁ、自分たちの他にも仲間がいるのだ」と知り、祈ったことだろう。
そのようにして、辺境でしっかり大地に根を張り生きながら、一方ではクリスチャンとして「仮住まい」をしている人たち。そんな人たちを手紙の著者は「石」と呼んでいる。石は周りの土とは違う存在である。それを使って神の家を建てることもできれば、武器になったり躓きの石になったりもする。そんな人たちを「地に住む者」として受けとめ、共に歩み支えようとした著者の思いを読み取りたい。
(文責=川上盾)