2024年10月6日(日) 世界聖餐日
フィリピ1:27-30
世界聖餐日は、全世界で6千万人以上もの犠牲者を出した第2次世界大戦の痛みの記憶の中から、世界の平和を願って始められた。それから80年近くが経過し、人類は少しは賢くなったのか?ウクライナ戦争やイスラエル・ガザ戦争の現実を見る時に、やるせない気持ちになる。
一方、能登半島では、お正月の地震に続いて9月の大雨による水害で、二重の苦しみに遭う人々がいる。「なぜ自分たちが何度もこんな苦しみに. . .?」という嘆きに対し、何の声もかけられない。戦争の苦しみ、災害の苦しみ. . .。それは理不尽なものであり、意味を見出せない苦しみである。
この深刻なテーマに対して、「人間はそんな苦難の中でも希望を持つことができる!」そんなメッセージを語るのが今日の聖書箇所だ。フィリピの信徒への手紙。パウロが宣教活動が原因で逮捕され、牢獄に入れられた中で記された手紙である。「喜べ!喜べ!」との言葉が多く記されることから、「喜びの書簡」と呼ばれる。
今日の箇所でパウロは「私たちはキリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」と記す。こんな言葉を実際に被災地で苦しむ人々に示しても、「ハァ?」と怪訝な顔をされるだけだろう。このような心情は、決して押し付けるものではない。「苦しみも恵みです」などという言葉は、したり顔で人を説得しようと語るものではなく、その人自身の気付きの中で受け入れて、初めて意味を持つものだと思う。
しかしパウロには確信があった。それは自分の今受けている苦しみは、イエス・キリストが受けた苦しみ(十字架)につながるものである、と。そして神はその十字架の死を、絶望のかなたに放置することなく、復活の命を備えて下さった、と。
ひとりでは耐えられない苦しみ、痛み. . .。しかしそこにイエスが共にいて下さる. . .痛みを共に背負って下さる. . .そして、イエスを遣わされた神は、その痛み苦しみに復活の命をもって応えて下さる. . .だからそこに希望がある。そんな信仰の確信の下にパウロは「たとえ祭壇に私の血が注がれるとしても喜ぼう」(2:17)と記すのである。
河合寛次郎(陶芸家)の言葉にこんなものがある。「遺憾なことに、『ほんとうのもの』は、大抵はいたましい中から生まれるものだ」。本当に人の心を打つものは、豪勢で甘美な営みの中からではなく、むしろ痛ましいものを経由して生まれるというのだ。
「だから苦しみがあってよい」と言いたいのではない。そんなものはないほうがいいに決まっている。しかし「遺憾なことに」、そういった苦しみが人生にはしばしば訪れる。そんな中から、人間は「ほんとうのもの」を感じ取るこころを持っている. . .そういうことだろうと思う。
パウロならばその「ほんとうのもの」は、イエスの十字架への歩みからこそ生まれる、と言うだろう。貧しい馬小屋で生まれ、小さき者と共に歩み、おごり高ぶるものを諫め、そのために最期は十字架で苦しまれたイエス。その「ほんとうの生き方」に、神は復活の命を備えて下さった。「だから今日、希望がある」と。
♪「だから今日、希望がある」(P.ソーサ)
主が貧しい馬小屋で お生まれになられたから
この世界のただ中で 栄光しめされたから
主がおごるものを散らし 高ぶる者を低くし
小さく貧しい者を 引き上げ褒められたから
主がわたしたちのために その罪と咎を背負い
苦しみと痛みを受け 十字架で死なれたから
主がよみがえられたから 死を打ち破られたから
もうなにも主のみ国を さえぎることはできない
だから今日、希望がある だから恐れずたたかう
貧しい者の未来を 信じて歩み始める