『 誰かの犠牲によって救われる 』 川上盾牧師

2024年10月13日(日)
士師記11:29-40,ヘブライ9:11-15

今日の旧約は、何とも奇妙な物語である。士師(王制以前のイスラエルのリーダー)のひとりであったエフタは、アンモン人との戦いに臨むにあたり神に誓願をかける。「戦いに勝利を与えて下さったら、私が帰る時最初に家から出て来たものを燔祭として献げます」と。いわゆる「人身御供」である。

果たしてエフタは戦いに勝利を収めた。アンモン人の侵入を防ぐという「救い」を得たのだ。ところが彼を迎えに家から最初に出て来たのは、彼のひとり娘であった。喜びの絶頂から悲しみのどん底に急転落したエフタ。しかし請願を取り消すことはできず、彼は娘を燔祭として献げてしまった。

この物語はどんなメッセージを語るのか?それは 〈 どんなに願っていた「救い」であっても、そのために誰かが犠牲になるならば、決して心から喜ぶことはできない 〉ということ以外に思いつかない。それが人間として当然の反応なのではないだろうか。

ところが、この当然の反応が、キリスト教のドグマ(教義)に立つと、突然違う反応になることがある。「イエス・キリストの十字架は、私たちの罪を贖う犠牲の献げもの」「十字架の犠牲によって我々は罪を贖われ、永遠のいのち=救いを得た」 そういったことがさも耳慣れた出来事のように、しかも感謝をもって受けとめられてしまうのである。

ヘブライ書は「大祭司キリスト論」によって、独特の福音理解を語る。キリストは永遠の大祭司として、ご自分の身体を犠牲の供え物=生贄として献げて下さった。その十字架の贖いによって救いが与えられた. . .そんなメッセージが述べられる。教会では耳慣れた言葉であり、それに対して「ありがたい!」「感謝!」といった反応が立ち上がる。

しかし、ちょっと待ってほしい。エフタの娘の場合は、100%の喜びではなく、むしろ「いたたまれない気持ち」をもってその「救い」を受けとめたではないか。だとしたら、「十字架の贖い」というメッセージを受けとめる際にも、ただ「感謝!」「喜び!」だけではなく、「いたたまれない気持ち」で向き合うことが大切なのではないか。

中学生の時、友だちと3人で下校中に隣の中学のNという札付きのワルに絡まれたことがあった。私ともう一人は怖がってなされるがままだったが、あと一人のU君は抵抗し、そのためにさんざん殴られてしまった。私ともう一人はただ固まってそれを見ることしかできなかった。U君が最後の力を振り絞って遠くに走って逃げ去ると、NはU君のカバンを塀越しに近くの大学の構内に投げ込み、「取りに行くなよ!行ったら承知せんぞ!」とすごんで、その場を立ち去った。

気まずい思いでその場に佇んでいた我々二人。すると突然、おばさんの声が響いた。「卑怯者!友だちやろ!?何で助けてあげへんの!?」一部始終を見ていたのであろう。その声でハッと我に返り、大学の構内に入ってカバンを取り戻し、その後再び落ち合えたU君にそれを渡すことができた。

U君が殴られたおかげで、我々二人は殴られることなく難を逃れた。けれどもその「救い」を喜ぶことなど決してできなかった。ただただ自分の情けなさを痛感し、いたたまれない気持ちで受けとめるしかなかった。

ペトロはイエスが逮捕された時、「私はあの人と関係ない」と3度にわたりイエスを拒んだ。そして鶏の声を聞き自分の犯した過ちに気付くと、外に出て激しく泣いた。その後彼は立ち直り、初代教会の指導者の一人となった。そこで何度も十字架の贖いの話を聞き、それを語りもしたことだろう。

ペトロはそれを心から喜べただろうか?誰かの犠牲によって救われる、そんな自分の身を、ただ「感謝!感謝!」と感じられただろうか?むしろあの鶏の鳴く声が思い出され、「いたたまれない気持ち」を心のどこかに抱き続けたのではないだろうか。

「十字架の贖い」に対して、感謝の気持ちを抱くのが「いけない」と言いたいのではない。しかし「いたたまれない気持ち」を忘れてはいけないと思う。なぜならその思いは、自分が再び過ちを犯しそうになる時、それを防ぐ力になってくれるからだ。