2024年10月20日(日)
エレミヤ29:4-7, フィリピ3:17-21
旧約はバビロン捕囚期に活動した「嘆きの預言者」エレミヤの言葉である。周りの「おかかえ預言者」のような安易な楽観論を語らず、捕囚に向かう厳しい現実を包み隠さずまっすぐ語った。今日の箇所はエレミヤがバビロンに捕囚として連れ去られた人々(指導者階級)に向けて記した手紙の一節である。
エレミヤはバビロンで「家を建て、果樹を植え、結婚して子どもをもうけよ」と記す。自分たちの住む街(バビロン)のことを殊更嘆かず、むしろ街の平和を祈れ、と。民族の危機的な状況を生きる人々に向けて、「日常を取り戻しなさい」と語りかけるのである。
「日常を取り戻す」 ― これはコロナ・パンデミックの状況を生きてきた私たちにとっても、切実な課題であった。感染拡大と共に、私たちの日常が次々に破壊されていった。非日常の毎日を過ごす中で、私たちはささやかな日常を過ごすことがいかに大切であるかを痛感した。
そのコロナの危機も改善され、苦難から解放されたことは大変感謝すべきことである。しかしそれに伴って、あの頃に感じた「ささやかな日常のかけがえなさ」を忘れてしまうなら、それは困ったことだ。冷え込んだ経済状況に対して、「今こそコロナ時期を上回る景気の回復を!」と意気込んでいるいる状況に対し、「それでいいの?」という思いを抱かざるを得ない。
捕囚の民にエレミヤが語ったのは「繁栄をとりもどせ!」ということではない。「ささやかな日常を大事に求め続けなさい」ということ。このことは現代の私たちにも大切な道筋を示してくれる。
けれども、その「ささやかな日常を大切に」というメッセージも、時と場合によっては重荷・呪いになりかねない。それを手にしている人(メドが立っている人)はよい。しかしそれを手にできない人にはかえって焦りやプレッシャーを与えかねない。
そんな人たちにとって、今日の新約のパウロの言葉は、支えとなる「もう一つの視点」を与えてくれる。「私たちの本国は天にある」とパウロは記す。その本国においては、キリストと同じ栄光の体に変えられるのだ、と。そのような信仰に生きる時、現実の苦難があったとしても希望を抱くことができるのだ。
「自分の腹(欲望)を神とする」そのような人々に向けてパウロは、「彼らは恥ずべきものを誇りとする人々であって、その行き着くところは滅びです」と手厳しい。そうではなく、この世のことには囚われず執着せず、地上の現実にすら縛られない「魂の自由」をパウロは示す。それこそがイエス・キリストから教えられた信仰の果実である。
本国が天にあるからといって、地上での歩みを軽んじることはない。それもまた神が与えられた大切な恵みである…そう受けとめて誠実に過ごしたい。「功成り名を遂げねば!」と焦るのではなく、ささやかな日常をこそ大切にしたい。しかし一方では天の国籍に思いを馳せることによって、この地上の現実にすら囚われず、縛られずに、自由に生きる歩みを求め続けたい。