『 世のはじめ、世の終わり 』

2024年10月27日(日)
箴言8:22-31, 黙示録21:1-4

「何事にもはじめがあり、終わりがある」…この言葉に、日本人は「諸行無常」「もののあわれ」の感覚を抱くことが多いと思う。今盛んに活動しているこの日々も、いつしか結局終わってしまう. . .そう考えると何とも言えぬ空しさを感じるのだろう。

しかしそんな心情に対して、私はいつも申し上げている。「野球の試合も終わりがある。だから面白いんです。終わりのない野球の試合があるとしたら、それは地獄の苦しみでしょう」と。終わりを知ること、それを恐れや脅しの機会とするのでなく、豊かさにつながるものとしてうけとめたい。

今日の旧約・箴言の言葉は「世のはじめに先立って、“わたし(=知恵)”は存在していた、という世界観を語る。それはヨハネ福音書の冒頭、「初めに言があった」と始まる「ロゴス・キリスト論」にもつながる考え方である。ニケア信条にも同じような考え方がある。天地創造に先立ってまず生み出された知恵・言・光とは何なのか?考え出すと、話は大変抽象的なところに入り込む。

むしろ私たちは箴言の言葉から、シンプルな真理一つを受けとめたい。「何事にもはじめがある」。そしてこの真理は、もう一つの真理の在りかをも示す。「何事にもはじめがあり、何事にも終わりがある」。

新約は黙示録。世の終わりについて記した、独特の雰囲気による内容を持つ文書だ。サタンや奇妙な生き物が登場するなど、かなりオカルトチックな物語である。黙示録は暗号のような物語である。ローマ帝国の弾圧の下で、「今は栄華を極めるローマもいつかは終わる。神(キリスト)が最後には勝利される。そのことを信じて、迫害を耐え抜いて生きていこう」そんなことを呼びかける文書なのだ。

この世の終わりがやがて訪れ、そして新しい天・地が現れる…そのように語られ、こんな言葉が後に続く。「私は万物を新たにする」「私はアルファでありオメガである」. . .ここには天地創造(はじめ)から終末(おわり)まで、一直線に伸びてゆく聖書の歴史観が横たわっている。

「何事にもはじめがあり、終わりがある」それが聖書の示す真理である。こう言うと「そんなの当たり前ではないか」と思われるかも知れない。しかし私たちはそのことを本当に知っているだろうか。きちんと正面から受けとめているだろうか。

朝目覚める時、かけがえのない一日を迎えた感謝と喜びを、どれだけ感じているだろうか。夜眠る時、「明日は目覚めないかも知れない」と思う人がどれだけいるだろうか。朝目覚めるのも、夜眠るのも「あたり前」になってはいないだろうか。そうして「あたり前の日常」を過ごす中で「はじめ・おわり」を見なくなり、その間にはさまれた「今」という時をも空しく過ごしてしまってはいないだろうか。

いつもいつも、四六時中「世のはじめとおわり」について考えるのは難しいし、息が詰まる。私たちは大抵は必要に迫られたり、流されたりして生きていくものである。それはそれで構わない、仕方のないことだと思う。

けれども時には、「自分の人生にも、この世界にも、はじめと終わりがある」そのことを大切に見つめたい。なぜなら、終わりを知ることで、私たちは今という時の輝き・かけがえのなさに気付くことができるからだ。主日毎にささげるこの礼拝こそ、そんな思いを抱くのにふさわしい時だ。