2015年5月31日(日)
使徒言行録2:22-36
子育てにおいて、未熟でいつも親の手を必要としていた子どもが、自分の力で歩めるようになることは親の喜びである。しかしそれは同時に子どもが親を必要としなくなるということであり、それは親の悲しみである。喜びと悲しみの交差する営み。それが人間にとっての子育てというものであろう。
ペンテコステの日に聖霊を受けて、力に満たされて新しく歩み始めた弟子たち。そこに「教会」の歩みが始まってゆく…それが使徒言行録の物語である。しかしそれは同時に、弟子たちにとって大切な導き手であり師であるイエスが不在の状況を歩んでいくということでもある。
マタイ福音書の最後は、復活したイエスの「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」という言葉をもって終わる。しかしルカ(使徒言行録)のイエスは昇天、すなわち天に昇り、弟子たちの元からいなくなってしまう。「いるけどいない。いないけどいる。」ということである。「イエスはいつも共にいて下さるよ。」とは語れても、「ほら、ここにいるよ。」という形で示せるわけではない。そんなイエスや神さまを信じて生きるというのがキリスト教信仰の真骨頂と言えるだろう。
ペンテコステ以降の弟子たちの歩み。それは師を失った弟子たちが、しかし見えない聖霊の力に導かれて、今度は自分たちの力で歩み始め成長してゆく姿でもある。「いないけどいる」イエスに支えられて、自立に向けて歩みだす物語である。
かつてイエスは「わたしが去っていくことは、あなたがたのためになる」(ヨハネ16:7)と言われた。イエスが去ることによって「弁護者(パラクレートス=傍らに呼ばれた者)」が弟子たちのもとに遣わされるから、というのだ。師の不在という不安だらけ穴だらけの心を抱えた弟子たち。その心の隙間めがけて、パラクレートス、すなわち聖霊の風は吹き込んでくるのである。
今日の箇所は、聖霊に満たされたペトロが初めて説教をする場面である。イエス・キリストの生涯(十字架と復活)を語り、そのイエスこそメシヤ=救い主だ、と語るペトロ。ふと、「どんな表情で語ったのだろう」ということを想像する。自信たっぷりの面持ちで、堂々と語ったのだろうか?いやむしろ顔面蒼白のテンパった表情を思い浮かべる。
それは初めてひとりで自転車に乗る子どもの表情に似ているかも知れない。最初は補助輪付きで、次にそれを一つはずし、二つはずし、最後は玉無しで、でも後ろを親が持っていてくれて…。「離さないでよ、離さないでよ!」「大丈夫、だいじょうぶ…」顔面蒼白、こわばった表情で懸命にペダルをこぐ。「だいじょうぶ…」の声が、だんだん遠くなる…。そうやって少しずつ自分の力でできることを確認し、やがて自信をもってこぎ出していけるようになる。いつまでも親に後ろを持ってもらったままでは、その経験は手に入らない。
「聖霊の導き」とは何なのだろう。聖霊やイエスの霊がその人に乗り移って、まるで別人格のように操られる…ということではないように思う。そうではなくて、かつて師の下で受けた教えや生き方を、今度は師の支援抜きで自分で始めようとする。その時同時に抱く不安や恐れの中で、師の下で学び蓄えたはずの力を引き出してくれるもの、それが聖霊の導きというものではないか。
エルサレムで多くの人を前に意を決したように語り始めるペトロ。それは師の不在を嘆く姿ではなく、「師の不在に励まされて」歩む人の姿である。その姿を語り伝える福音書記者ルカは、それを読む私たちにもひとつのメッセージを送ってくれる。「弱くても、不安に思っても、それでもあなたには一人で歩む力が与えられているんだよ。そんなあなたを神さまは、そしてイエスさまは、ちゃんと見守っていてくださるのだよ」と。