2024年11月3日(日)
創世記23:11-16
人間は葬儀を営む自然界唯一の生き物である。ネアンデルタール人の時代から、家族や仲間の死を悼み、花を手向け、埋葬をしてきた。お墓とは“人類始まりの地”と言えるかも知れない。
では墓を作ること、墓参りをすることが人間の所以であり、何が何でも大切にすべき事柄なのだろうか?
今日の旧約はアブラハムの妻・サラの埋葬の場面である。長年共に歩んだ妻の死を悲しみ、遺体を埋葬しようと地域の住民・ヘト人に土地の提供を申し出る。ヘト人の首長は快諾し「土地は差し上げます」とまで言ってくれた。しかしアブラハムはその申し出を断り、代金(400シェケル=高額)を支払って土地を手に入れる。このエピソードは何を物語るのだろうか。
アブラハムにとって、タダでもらった土地に葬るというのでは、「あまりに安易すぎる」との思いがあったのではないか。アブラハムは精いっぱいの思いでサラを葬りたかった. . .そういうことが言われているのではないか。
どれほど立派な墓を建てたのだろう?人間は競うように壮大な墓を建造する歴史がある(ピラミッド、タジ・マハール、仁徳天皇陵)。死後にも及ぶ顕示欲、人間の欲望のすさまじさを感じる。しかしどれほど壮大な墓を築いたかはそれほど重要ではないと私は思う。大切なのは、安易な方に流れず、どれだけの思いを込めて葬ったか、それが大切なことではないだろうか。
アブラハムは心を込めてサラを葬った。そうすることでサラを失った悲しみをしっかりと受けとめた。そして逆説的であるが、そのことを通して彼自身の中になお生き続けるサラの命を感じたのではないだろうか。サラの再生を感じたのではないだろうか。
「くまとやまねこ」という絵本がある。近しい者の死(喪失)と再生を描いた物語だ。親友だった小鳥が死んでしまい、悲しみ・淋しさに暮れるくま。その亡骸を入れた箱を他の仲間に見せると、みんな口々に「もう小鳥は帰ってこないんだ。辛いけど忘れなくっちゃ」と返され、くまは徐々に心を閉ざしていく。
しかし旅芸人のやまねこに出会い、その悲しみを初めて正面から受けとめてもらった。「君の大好きだった小鳥のためにバイオリンを弾かせてもらうよ」 やまねこの演奏を聴きながら、くまは生きて働いた小鳥との思い出をすべて思い出す。
大切な人が亡くなっても、その人がいたという事実はなくならない。喪失と再生、そのかけがえのなさを描き、多くの共感を得た絵本である。
先日、妻の父(95歳)を天に送った。安中教会員だったので教会で葬儀をしてもらった。しばらく経って、妻の姉二人と私とで草津温泉に出かけた。17年前に亡くなった妻の母の故郷であり、二人が長く暮らした場所でもある。三人姉妹が子どもの頃からよく出かけたところだ。父は墓参りを大切にする人だったので、「帰りにお墓参りしようね」と言って出かけた。はたして、懐かしの場所を訪ね、エピソードを語り、気持ちよく温泉にも入り、おみやげも買って帰路に就いた。草津から降りてきてしばらくして妻が「あ!お墓参り忘れた!」。私は「まぁいいんじゃないですか。今日一日、お父さん・お母さんの思い出を語り合ったのですから。」と申し上げた。
私たちがお墓参りをするのは、墓を訪れる行為そのもの(花を手向ける、掃除をする、水をかける等々)に意味がある、というよりも、そうすることによってその人と共に過ごした日々を想い起こすことに意味があるのではないだろうか。すなわち、大切な人の喪失と再生を心に受けとめ、自分もまた限りある命・与えられた命を大切に歩もうとする、その思いを改めて心に刻むことが大切なのだと思う。