2024年11月10日(日)
創世記13:10-18, マタイ3:7-12
アブラハムは、聖書の民・イスラエルの父祖とされている。アダムとエバ以来罪を重ねてきた人類の中にあって、神に選ばれ、契約を結び、祝福を約束された人物。ここからユダヤ教・キリスト教・イスラム教、世界50億人にも及ぶ信仰者がうまれてゆく。
アブラハムは決して立派だから選ばれたのではない。弱く間違うこともある生身の人間だ。しかし「住み慣れた家を離れ、私の示す地に行きなさい」という神の命に従った. . .その一点のみで祝福と導きを約束されたのだ。
今日の箇所は、その彼が、同行者・ロトに道を譲る場面である。相当の財産を持ちながら旅を続けていたアブラハムとロト。互いの使用人(羊飼い)同士が争うのを見て、別々の道を行こうと相談する。その分かれ道に際して、右に行くか左に行くか、その取捨選択権を年少で甥っ子のロトに譲るのである。
ロトが眺めると、ヨルダン川低域は豊かに実っているように見えた。それでロトはそちらに進み、アブラハムは逆のカナン地域へと進んだ。その後、ロトの出かけた地域ではソドムとゴモラの出来事(罪に染まり切った人間が天の火で焼かれる)が起こった。
ロトの選択は間違っており、アブラハムが正しかったのか?その正否は分からない。今日はこの箇所から、「お先にどうぞ」と振舞うことができたアブラハムの心情について考えたい。
レヴィナスという哲学者は「人が倫理的に生きるということ、それはいついかなる場所でも『お先にどうぞ』と言えることだ」と語った。エレベーターの前でそのようにふるまうことは容易だ。しかし沈みかけた船で救命ボート最後の一席を前にそう語ることは極めて難しい。
ロトとの別れの場面で、アブラハムは「お先にどうぞ」と振舞った。この場面において彼は倫理的に振舞うことができたのだ。
逆に人が倫理的に振舞えないのはどういう時か。それを示唆するのが新約の箇所。バプテスマのヨハネによる、ファリサイ派・サドカイ派への痛烈な批判の言葉だ。
「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな!」とヨハネは語る。「特権によりかかるな!」ということだ。ユダヤ人の血筋・伝統によりかかり、「神の祝福を受けたければあれをしろ・これをしろ」と指図する彼らを、ヨハネは激しく非難した。私たちの心の中にも、このような特権によりかかる心理が宿っていることを自戒したい。
どんな時でも「お先にどうぞ」と言えること. . .これは簡単なことではない。しかしそれを可能にする方法がある、と内田樹さんは語る。「今日一日をハッピーに生き、そのことを感謝する。そんな毎日を積み重ねること」だというのだ。
別に特別なことをする必要はない。自分の日常のささやかな生活の中に、小さな喜びと感謝と誇りを感じて生きること。そこで得られる喜びは、特権によりかかる人生では得られないものだ。その小さな喜びを知り、蓄えてきた人こそが、肝心の時に「お先にどうぞ」と道を譲ることができる。