『 分かち合う共同体 』

2015年6月7日(日)
使徒言行録3:37-47

教区総会の分科会で、過疎地の教会の信徒の方の声を聞いた。「地域に向けて懸命に伝道しているが、一向に教会に来る人が現れない。どうすれば伝道の実りがあるのか。やり方が間違っているのだろうか。教えてほしい。」日本はキリスト教伝道の最困難地と言われる。その日本において「伝道する」とはどういうことなのか、考えさせられた。何をもって伝道の成果を計るのか。まさか「信者になった人の数」だけがその判断基準ではあるまい。

今日の箇所では、ペンテコステの出来事のあと、ペトロの語る説教に心打たれた人々が続々と彼らのもとへやって来る様子が描かれている。人々は何に心打たれたのだろうか?ペトロの話の内容か?いやむしろ、昨日まで怯えていた弟子たちが、見違えるような顔つきで語り始めるその姿に、「これはただ事ではない」と何かを感じたのではないだろうか。

「邪悪なこの時代から救われなさい!」そう語るペトロの言葉に導かれて、その日のうちに洗礼を受けた者が3,000人いたという。それにしてもすさまじい人数である。企業などが用いる「コストパフォーマンス(費用対効果)」という指標で見るならば、大成功の宣教成果と言える。しかし、あの教区総会での発言を聞いた者として、ただその人数だけをもって「素晴らしい!」と称賛する気持ちにはなれないのだ。現代の日本で、一日に三千人もの信者を生み出す教会が現れたら、むしろ怪しまれるだろう。エルサレムにはエルサレムの展開があったのかも知れない。しかし日本には日本の展開があると思う。敢えて言おう。「数がすべてではない。」

今日の箇所にはその後日談がある。そしてそちらの方にこそ、私たち日本の教会に集う者が学ぶべき点があると思う。弟子たちのもとに集まった人たち。そこに世界で最初のキリスト教会が誕生する。その最初の教会の姿について「信じる者たちは、それぞれの財産を持ち寄り、それを共有し、必要に応じて分かち合っていた。」と記されている。

『原始共産制』。エンゲルスが人類太古の平等な共同体の姿として理想としたあり方。それを彼は革命によって作ろうとしたが、聖書では自然発生的にそのような共同体が生まれていたというのである。それを生み出したもの、それは言うまでもなくイエス・キリストの福音である。我欲が強く、何事においても自分中心の人間が、イエスの教えに触れることによって、心を改められて、新しい共同体を作る礎となった。

一日に三千人の受洗者を生み出す教会にはなれないかも知れない。しかしこの「分かち合う共同体」になることは、私たちの心がけ次第では可能だと思う。そうは言っても、実際に財産を持ち寄って本当にそれを共有することは、現代の日本社会では難しいかも知れない。しかし精神的な部分において、喜びや悲しみ、重荷も辛さも分かち合う共同体。それを目指すことは私たちにもできるのではないだろうか。